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近況と試作

10月、学校の常勤業務に加えて4件の作品上映とそれに伴うパネル展、そしてフジフォトの企画展参加をこなし、11月は学校行事に向けて新しい機材のセットアップに追われつつ、合間を縫うように洞爺と泊の撮影も一回ずつクリア。
今日は約2ヶ月振りの全休。

次の週末は月末〆切のコンペ出品用のプリント作業が控えているので、また休めそうもない。
以後は来春の東京の個展準備。また、先月東京の友人から送られてきた音響素材とコラボレーションするヴィジュアルを現在制作中で、これは年内にサンプルを上げる予定で動いている。然るべき形が見えたら、どこかでライブ形式で発表することになるのかもしれない。
先月から、この種の作業(デジタル系の生成映像)が自分のなかで大きなウェイトを占めている。

もしもボードリヤールのテクストと向き合っていなかったら、このように再びデジタルツールによる制作と向き合うことはなかっただろう。

ボードリヤールはなぜ晩年に、ネガフィルムに拘ったか?
それは、デジタルの重さを欠いたイメージの氾濫への抵抗であり、果てはデジタルというシステムが世界を席巻すること、それ自体への警告であり、抵抗であったはず。
そのテクストを脳裏でリフレインさせながら、僕は今年「annoski(アンノシキ)」というタイトルの、薄暗がりをネガフィルムの長時間露光でトレースするシリーズの制作を続けてきた。
この作業は写真を媒体としていながら、「複製/複写」であると同時にある種の「生成」としての感覚も併せ持っていた。なぜならそれは、眼前の光景が徐々に光を失い、最後には完全な闇に閉ざされる時間の流れを体感するものであり、言い換えれば、肉眼ではもはや認識できない微細な光が失われてゆく過程を、フィルムに刻印してゆくような作業だったからだ。

前述のボードリヤールの末期の言葉と、このシリーズのプロセスが、デジタルの側からのイメージの生成の仕組みをもう一度理解し、改めて使いこなすということへと繋がって行ったように思う。

もっとも重要なことはどちらも「ある部分から先が偶発的」であるということ。
コンセプトを定めてデジタル言語の偶発性をコントロールすることは、事前に定めたフレームに基づいて、暗がりの中でフィルムに露光を行うことと、どこかで繋がっているように思う。

それはもしかしたら、モンタージュに依らずに世界を叙述する、新しい言語を模索する試みなのかもしれない。映像編集の新しい形とも言えそうだが、「編集=固定化されたタイムライン」と言う定義そのものからも、逸脱したものとなるだろう。
コンピュータのシステムを介したランダムな叙述によって、「構成=意図」の壁を乗り越えること…実験が成功するか否かはさておき、冬の間は撮影に代わって、この作業に注力したいと思っている。


Akiyoshi Kitagawa on the web
http://www.visual-activist.com/akiyoshikitagawa/

by akiyoshi0511 | 2010-11-23 21:54 | monologue