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2006.4.13


gallary更新。
http://www.akiyoshikitagawa.com/F2/gallery/index.html

デジタルから久しぶりに35ミリ銀塩にフォーマットを戻すと、当然無意識に抑制が効いて撮影カット数が極端に減る。スナップショットにおいてもその他の撮影においてもそう。しかしデジタルでの撮影と比して最終的に残すカット数はほとんど変わらない。ということはつまり、純粋に撮影のリズムが変わるだけに過ぎないということなのかもしれない。そして例によって標準レンズ/縦構図というのが圧倒的にしっくり来る。依然として、撮影行為とモノの実体感というものを等質に考える試みの中にある。

フレームの内と外の、両者の体感の差異を埋めてゆく試み。つまりフレーム外の世界との関係性を見失わない写真こそが今は大切に思える。被写体が半ばフレームの外にあったり、なにかの陰に隠れている、という構図が多いが、見えないことで見えてくる、あるいは、見ようと促すことができる、という理由からそういう結果にいたる。肉眼そのものに近づける、のではなく、肉眼で見るときのプロセスに写真を近づけたいと思う。

最近、ぜひどうしても撮りたい、という人に巡り会った。そういうことを何も期待していなかったタイミングの出会いだった。それが直感に基づく遠謀深慮なのか、単なる軽佻浮薄なのかはこれから関係を築いてみないと分からない。まるで分からなくて、そしてすべてのバランスが常に微妙に変動するというところが、他者を被写体にすることの究極的な面白さであるということを、重要視し始めた。これまでは風景の延長で人物を導入していたことを思えば、これは大きな変化と言えそう。人物を扱うことのそれらしさが、これまで培った風景への姿勢と両立するときに、自分の写真たらしむ最低限度の条件がはじめて揃うのかもしれない。

他者との関係性を、その都度、少しでも創造的な、相互作用に基づくものとして捉えなおすこと。検証する前に、未知のものを未知のままにひとまず己の中に取り込むというあたらしい習慣。そうしていわば、日常からあらたなモンタージュを模索する。モンタージュというのは終局的には、主体的な現実認知の技法そのものである。他者との関係性を無視した世界に、正論というものは存在しないのである。己の観念の中だけで周到に、あるいは頑にパズルを組んだところで、それは戯れに過ぎない。そうしていたところで世界はますます酷くなってゆくし、私たちは信じられない速度で核心から遠いところへ追いやられてゆくのである。そのことに一向に気づかない、あるいは目を逸らし意に介さないほど、愚かなことはないだろう。

まず否定からはじめる、という、同時代から学んだ思考規範を放棄していると思う向きもあるかもしれないが、もしも己がこれまでの経験から、敢えて否定から入ることの意義と、その正しい行程をある程度理解しているのなら、この反転は転向ではない。要するに逆説的に、自分は自分の一貫性をもう一度問うているのであり、いわば否定的見解の現在的効力というものを、外部との摩擦ではなく対話の中で検証しているのである。より複雑な関係性の中で、己の側のコードも複雑化し、再び有効たらしめんとしている、ということ。

今なら迷わずシャッターをきれる、と思う瞬間は相変わらず少ない。数年の反芻のなかで根付いた考え方と、それに縋ることを放棄した不安定な(しかしおおらかでさえある)感情の動きが衝突を起こし、そうして自己の変容と戯れ得る一瞬が過ぎ去る前に、それを時間から摘出する判断を下す、というところ。
by akiyoshi0511 | 2006-04-13 00:43