カテゴリ:dialogue( 55 )

霽れの日

祖父のときもそうだったのですが、祖母を見送った日も空は見事に晴れていました。91歳の大往生で、最後は認知症が進んでいたこともあり、とても静かに息を引き取った祖母。その表情はまるで晴れた空に浮かぶ綿雲のように柔らかく、また、少しだけ寂しそうでもありました。
自分も多少歳を重ねたせいか、葬儀の数日の中で故人との別れを、冷静に、しかし心に澱みなく噛み締めていた気がします。



北海道の撮影に関しては、六ツ切りのテストプリントがやっと15枚を超えたところ。これまでも限定してきた光線条件はさらに絞り込むことにし、撮影回数や稼働時間が減る分、テンポを速めようと思っている。そのため4×5のフィルムに加えて、一連の決着がついてからと思っていた中判ポジでの撮影も再開することにしました。
最終的なカット数もそれなりの数になるかもしれない。あるいはまた、当初の態勢に戻すかもしれない。大切なのはどの段階で「過不足なし」と判断できるかだと思っています。

いずれにしてもこのシリーズでは最後まで一貫して、ネガフィルムは使わないつもりです。
[PR]
by akiyoshi0511 | 2008-06-05 13:53 | dialogue

原野再訪

新緑の訪れとともに、昨年からのロケーションハンティングに基づいて
大判フィルムでの撮影を再開。

飛行場のある原野での10枚と、
北のユートピア的都市での10枚。
併せて20枚の、大きなプリントの制作を目指してすすめています。

同じ場所に何度か赴いてデジタルで撮影を繰り返し、
そして最適な状況が訪れた日に大判フィルムで撮影。
ポジに問題がなければその場所は終了、というプロセス。

大判フィルムでのランドスケープ撮影は記憶を外部化するような行為。
自分で見ることを中断し、フィルムに刻印することに専心していると、
私情とは異なる何かが、そこに焼き付けられる気がします。
[PR]
by akiyoshi0511 | 2008-05-30 11:27 | dialogue

原点回帰

ひさしぶりに朝まで飲んだ。
新宿の路上で仮眠。
[PR]
by akiyoshi0511 | 2007-06-23 15:26 | dialogue

2007.04.23

リバーサルフィルムで撮った写真は現像に出すこともなくそのまま放置してしまうことが多い。けれど、昨日撮った1ロールはそうはならないだろう、ふとした瞬間にそこに収められた1カットのために。それは率直に自分の心のための写真であり、カメラを構える右手も、シャッターを圧す指も、閉じた左目も、RXのシャッター音も奇妙に軽さを孕んでいると感じたのだった。そうやって少しずつ以前とは違う次元にチューニングを合わせてゆく。頑になることで真実に近づかんとした己はもういないが、その時間で身につけたものは今シャッターをきる瞬間も確かに息づいている。この失われることのない意思のために、撮り続けるのだと。過去を説明する言葉に詰まっても、まだここに眼差しは生きているのだと。
幼い頃の自分のように、軽口をたたきながら20代を終えようとしている。既に自分自身の行く末は知っているという気がする。あとは、他ならぬその人がいるのか、それとも今後も同じように一人で行くのかということだけだ。僕にはそれを決めることはできない。
[PR]
by akiyoshi0511 | 2007-04-23 17:09 | dialogue

2005.8.28

2週間ほど前、O鉱山で写真撮影を行った帰途、濃い霧に囲まれて前後不覚に陥り、2時間近く道なき尾根をさまようことになった。奪われてゆく体温、日没が迫る危険、激しいのどの渇き…。しかし最大の恐れは何よりも、霧そのものの圧迫感だった。5メートル四方の、笹に覆われた原野以外は何も見えず、自分が今どこにいて、何処に向かって歩いているのかも解らない。死の恐怖というよりも、その時自分を含む光景自体がある種の死、そのものだった。
危機的状況においても最低限度の理性を保つことができると考えていたものの、あの圧迫感のなかでは到底冷静ではいられそうもなかった。刻一刻と夜が近づく恐怖とともに、果ての見えない霧の可視的な恐怖というのが確かにあり、一定時間以上その状況に置かれれば錯乱してしまうだろう、という予感に苛まれた。意識を繋ぎ止めながら、尾根を闇雲に走り回り(霧を見渡すのが恐ろしくて立ち止まって状況判断することなどできなかった)、本当に偶然、山道に復帰できたのだった。

しかし、もしもあのまま一晩山を彷徨うことになっていれば、何かが変わったかもしれない。極限状態というのは欲して得られるものでもない。無論、命の保障もないけれど。

去年だったか、横浜で見た現代美術のパフォーマンスをふと思い出した。洞窟の潜行を体験した時のトランス状態を舞踏と織り交ぜて表現したものだった(気がする)。パフォーマンス自体は拍子抜けするところもあってあまり印象に残らなかったが、高山での出来事を機に、思い出したのだ。
ここのところ、極限状態に現前するある種の「聖性」というものを意識するようになった。自分の認識の追いつかないもの、否、誰の認識も追いつかないものというのに否応なく引かれる。無論、いま押し進めている取り組みの反作用というのもあるのだろうが…。
今まで嫌悪して、あるいは嫌悪しないまでも意図的に避けて来た、認識を超えたところにあるカタルシスや衝動というものに、否応なくひかれていく。

選挙結果が出た夜、友人と話をしていた。無論、言葉を失う状況には違いなかった。友人の言うには権力とは実体なき「死」そのものなのだという。それだけでは論理性を欠いた飛躍には違いないが、ふと、実体なき権力=死というものはなにか、極限状態における聖性というものと紙一重であるように思えた。しかし「権力」というものを掘り下げる際に見落としてはならないのは、それがあくまで人的/制度的なものであるということだ。彼が思わず提示したその「死」という絶望的なものを(ちなみに僕はその直前に「今回の人々の決断はまるで人間が自壊を求めているようだ」というようなことを言っていた)、もう一度、制度の構造に引き戻して認知しなおすことを怠れば、政治権力と、本来その上部構造である人間のみずから求めるところの「死」というもののつながりを明示できておらず、また、明示できないままに死と名付けてしまうことは非常に危険なことにもつながりうる。

(トーマス・マンの)「魔の山」の終わり近くの章で、主人公のハンス・カストルプはただ一人で冬山に登り、吹雪に見舞われ遭難体験をする。その中で、議論や認識の及ばない領域を知覚する。続く最終章では、まるでその体験に呼応するかのように、ドイツロマン主義の悪しき帰結でもあった(ロマン主義自体は決して悪しきものではない)第一次世界大戦への参戦という行動をとることになる。トーマス・マンは彼の大戦時には右翼サイドの論客だったというから、これは批判的というよりは象徴的な目論見で描かれたものなのかもしれないが、いずれにしても見出しうるのは、その二つの状況/行為は実は表裏一体なのではないかということである。人智の及ばない自然状況から得られる極限状態と、人間の利害関係と集団心理が高じて生まれる極限状態というものは、鏡像の関係にある。そして、さらに見落としてはならないのは「平常からの逸脱」の源泉の違いなのである。いわば「神」を取り違えないこと…。あらかたの人間がそれを見落としてしまうのはなぜだろうか。

ところで、現代においてはマスメディアが神にとってかわって、神の顔をしてのさばっているのかもしれない。メディアの全てが悪ではないのは勿論だが、メディアの構造に悪しき源泉が潜んでいることもまた事実だ。解散劇〜選挙報道の立ち上がりで、一部の影響力のあるTVや週刊誌が「小泉氏は郵政こそが争点だと言っている」と『半ば確信犯的に』『まるでご神託のように』言ってしまった時点で、この選挙は既に終わっていたのだろう。政策選挙であるという(当然そうであるべき)言葉など、一瞬でもみ消されてしまった。誰かまじめに民主のマニフェストを読んだろうか?(少なくとも4年は通用するものであったと僕は思う)この数年で小泉氏のもたらした諸処の政策を、一体誰が冷静に検討しただろうか?郵政民営化が今このときである必然を、またそれがもたらすものを、誰が実際的に想像しただろうか?

勝利後の小泉氏の一言「民主党は郵政民営化に反対した時点で負けだ」。自ら争点を絞るためのレールを敷設し、その通りの帰結へ持ち込んだ小泉氏が、自らの営為を正当化するとともに「他の議論は一切無視しちゃいました。無論、自衛隊派遣などは延長しますよ」という姿勢を余裕の表情で明らかにした言葉だ。この言葉とともに、彼はいっさいの大衆に対し「お前ら大衆はやっぱりバカだなぁ」と内心ほくそ笑んでいるに違いない。その内実さえまともに論じられなかった、明らかに茶番であるところの郵政民営化争議、その茶番でしっかり覆い隠されているのは弱者への弾圧である。そういう言い回しが被害妄想だと言うのなら現実問題に限定して、低所得層〜中産階級への大増税と言ってもいい。言うまでもなくこれから大損するのは今回メディアの報道に流されるがままに自民党に投票した「都市部の若い無党派層」である。電車男に歓喜し、セカチュウに泣き、年に一度の長期休暇を海外旅行に充てている、寝る間を惜しんで働いている、健康で、健気な人々である(健康かは分からないが、残念ながら僕自身も今のところはその層に含まれるだろう)。

・・・

嘗て長く政権を握った自民党は、ゆるやかな自己調整機能を…所詮利害関係に過ぎないとはいえ多少の多様性を…有していた。占領政策から朝鮮特需のどさくさの中で延命した保守勢力であることはいたしかたないとしても、戦争そのものへの逆行を回避するだけの自己批判能力は備えていた訳だ。戦争の罪悪と、戦後復興という労苦を知る者もそこには含まれていたからだ。しかし21世紀の今になって政治を担う自民党はそうではない。戦争の悲惨を知らず、剥き出しの右翼性と資本「原理」主義を携えたいわば急進的団体である。

文字通りの右へ倣えになりきらなければ、基本的人権も保障されない時代が、そう遠くはないように思われる。戦争を知らない世代による戦時への逆行…。無知の所作だけに実効力も知れているが、今の調子で国民が添い寝してしまえば想像以上の危険な現実が訪れる可能性はある。
[PR]
by akiyoshi0511 | 2005-08-28 00:00 | dialogue

映像作家・写真家 北川陽稔 http://www.akiyoshikitagawa.com/


by Akiyoshi Kitagawa

プロフィールを見る
画像一覧

以前の記事

2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 10月
2015年 03月
2015年 01月
2014年 12月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 07月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 01月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 09月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2005年 07月

カテゴリ

全体
dialogue
monologue
old text
information
sketch book

検索

その他のジャンル

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

シンプルライフ
クリエイター

画像一覧