カテゴリ:monologue( 100 )

2013.1.1(初夢)

無数の洞穴がある水辺を仕事仲間数人と訪ねている。昔乗っていたオープンカーで谷を降りて行くと四方に大きな穴が口を開けており、そこから水のきれいな沢が流れ出している。

洞穴は昨年撮影したある場所にも似ているが、もう少し人工的なトンネルのような、整った楕円形で、切り立った岩盤に無数に口が開いていた。
それぞれの洞穴はかなり奥行きがあるが、なぜか中は明るく、最深部まで見通すことができた。誰かがアメリカの風景のようだと言った。僕は石の裏に鱒がいそうだと思った。

数年前に関わっていた会社で営業をやっていたA君と、なぜかその場所で鉢合わせする(そこは観光地で程よく管理されているのだった)。A君と話しながら少し高い場所に移動した。すると案内板に目が行く。案内板に従い眼下を見ると、青い湖面に2つか3つ、小型の筏のようなものが浮かべてあり、そこにはそれぞれ神道の祭壇と、アイヌ式の祭壇が設えられている。

・・・

…という初夢を見た。

今日は豊平の水神様と石山神社に初詣をする予定でいる(ちなみに豊平の神様は昨年、管理者の方に許可を得て社の中を撮影させていただいた、とても小さな神社。石山の方は2年前にその地域を撮影した作品が受賞に繋がったというのが縁で、信仰という意味では特に深い理由はない)。

さて、一体どんな2013年になるのだろう。少なくとも僕にとっては近年にない素敵な初夢だった。別段、飛躍した創造的な夢だとは思わないけれど、少なくとも合わせるべきところにチャンネルが合っているということは実感できた。
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by akiyoshi0511 | 2013-01-01 04:10 | monologue

2012.12.21

一言で言えば「絶望を受け容れること」。ミシェル・ウエルベックの「闘争領域の拡大」はそういう本らしい。

一読すると、高度自由主義社会(人間と人間が極端に相対化された社会)における人間の快楽の追求を、悲哀を込めて描いているように見える。けれどこの小説、そんなに分かりやすいものなんだろうか。仮に、後に同じ作者が著す「素粒子」や「ある島の可能性」の誕生を踏まえて書かれたものだとしたら、まったく違う(あるいはより踏み込んだ)読み方もできるのではないか。
「闘争領域の拡大」の表紙を開くと、まず魅力的な引用文に出逢う。僕はもうその時点でこの長編小説を、一晩か二晩で読み切ってしまいたいという衝動に駆られるのだった。冒頭には、こんな一節が引用されている。

『夜はふけた。日が近づいて来ている。それゆえに私たちは闇の業を脱ぎ捨てようではないか。そして光の武具を身につけようではないか。』
(ローマ人への手紙 第十三章の十二)


闇の業と光の武具。まさに「素粒子」や「ある島~」を予見させるような言葉。まったく作者はどうやって、無数の古典の中からこの魅力的な一節を見出したんだろう。もしかしたらウエルベックはこのデビュー作を書き始めた時点で、続く三作(ちなみに僕はまだ「プラットフォーム」は読んでいない)を既に視野に入れていたのではないか。
残念なことに(僕は既にそれを期待して読んでしまったので)、「闘争領域の拡大」はそういう超越的な世界を描いたものでは全然なくて、飽和した資本主義社会で、ただただ肉体の衰えと叶わぬ欲望に捕われ、自壊してゆく三十路男の悲哀を描いたものだったりする。興味深いのは、主人公よりも少し若い20代後半に設定された(絶望的なほど外見的に醜い)友人が、その悲哀の真っ直中で簡単に死んでいくのに対して、その死を含めた悲哀を、主人公が客観視しながらゆっくりと自壊へと向かうところか。主人公が架空の小説を認めているという設定も相まって、この本は終止、幽体離脱した人物が自分の人生の末路をぼんやりと眺めているような印象を与えてくる。そして、その浮遊感はやはり後の作品の世界感に繋がる。

・・・

ウエルベックの物語に倣えば、消滅が進行しているのは自由でも民主主義でも、まして個人のアイデンティティでもなく、僕たちが日々体験し、悩まされているこの現実そのものなのだ。しかもその消滅というものは加速度的に進行している。クローニングと情報技術、この二つが自律的に進化し始めた時点で、私たちが悲哀や歓喜をこめて体験する「現実」というものは、少しずつバーチャルリアリティに置き換えられているのだ、ということになる。
これで、僕がこの小説家に否応なく惹かれる理由がはっきりする。つまり、ウエルベックの描く未来は、ボードリヤールが悲観的に予見した未来をほぼそのまま寓話化したものだった、ということ。

ボードリヤールとウエルベック、双方の言葉を背景に世界の現状を物語るなら、「今この時代」というタイミングも、情報網の中で個人も国家も失われてゆく過程の、その氷山の一角を垣間みているに過ぎない、ということか。何10万分の1の確率で訪れてしまった未曾有の大災害や大事故が背景としてあるにも関わらず、そこに端を発した選挙結果がかくあるということさえ、既に現実とバーチャルリアリティの境界を見失い、統御された情報の渦の中の多少ファジーな存在(=権力の予測可能な範疇の行動しか取れない存在)でしかなくなった私たち「市民」が、全世界で経験しはじめた、遺伝子レベルの改変を伴う世界の消滅の、端緒に過ぎないのだと…。

仮にウエルベックの寓話をボードリヤールの思想に繋げて、これこそが現実の予兆であると言い切ってしまうならば、どう考えても妄言にしかならない。
けれど、これは本当に単なる寓話と思想の偶然の一致であり、またその一致に魅せられてしまうことは妄想なのか?実はそこのところさえ良くわからなくなるほどに、世の中が混沌としてきたような気がする。既に、私たち自身の現実を見る眼が変わりつつあり、何かに慣らされつつあるのではないかと。
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by akiyoshi0511 | 2012-12-21 03:04 | monologue

2012.12.15

久しぶりに短期間で本を買い漁った。先日の日記にも書いたカミュの「ペスト」や、トマス・ピンチョンの「ヴァインランド」(新訳)、それにミシェル・ウエルベックの「プラットフォーム」と「闘争領域の拡大」。加えて純粋に写真論の本でデイヴィッド・ベイドの「写真のキーコンセプト」。あとは近所の古本屋でオースターの未読の長編数冊にブコウスキーの短編集を一冊、そしてトーマス・マンの全集から「魔の山」上下巻(100円コーナーにあった)。だいたいそんなところだと思う。これだけ一息に揃えると、久しぶりに本で散財した感じがする。でも中古で取り寄せたものもあるので、金額はそうでもない。

まともな文学に現実を忘れて浸かっている時間というものは、僕にとって人生で最もまともな時間なのだけれど、30代に入ってから国内作家で読みたいと思えるものがまったく見つからず(写真論や美術論、あるいは全然面白いと思えないけどがんばって読むしかない東西の思想書を、背伸びして解読している間に、いつの間にか純文学も例の「J文学」もジャンルとして消滅していた上に、ケータイ小説とかライトノベルと言う名の、少なくともその一部は掃き溜めレベルとしか思えないジャンルが書店の国内文学コーナーを占拠していて、90年代末までにデビューしている作家を除けば、誰がまともな作家なのか全く分からなくなってしまった)、しばらく小説から遠ざかっていた。

春にフリーランスに戻って、初夏まで業務の体制づくりと写真家活動の方で忙しく、盛夏から晩秋は仕事がどんどん動いて、それらにひとまず全力で立ち向かうことに注力していた。また、その時期は北海道の最高のオンシーズンでもあったので、少しでも時間があればロケハンという名のピクニックや、夜釣りに出かけたりしていて、読書と言えば先ほど書いたように、がんばって一日数ページのペースで読み進める思想書の類いくらいだった(実際はもう少し読んでいると思う。たとえば思い付きで暇つぶしに川上未映子を買ってみて、好きになって一通りの著作を読んだりはした)。

11月、唐突に雪が降りはじめて、空いた時間も外に出ることが少なくなり、仕事の量もほどほどになってきたので、心身の調子(リズム)を取り戻すために酒を飲むようになり、目と頭が疲れるタイプの本ばかりではなく、小説もまた読みたいと思うようになったのだけど、読みたい作家が見当たらなかった。それでひとまず、以前から暇潰し的に読んでいたオースターの未読の本や新刊(「ブルックリン・フォリーズ」は内容も装丁も本当に愛おしいと思える素敵な本だった)、ウエルベックのマニアックな初期作品(最新作の「ある島の可能性」はこの10年で出色の長編小説だと思う。少なくとも僕の中では、これを超えるものに暫く出逢えそうにない)、そしてやっと以前から欲しかった、とりあえず退屈することはなく、しかもその長大さ故にしばらく読破できなさそうなトマス・ピンチョンに手を出した次第(この新訳シリーズの装丁が秀逸なのは言うまでもない)。トマス・ピンチョンは年末年始の楽しみとして取っておいたのだけど、有り難いことに今年も年末年始は駆け込みの案件などで休暇はなく、どうやら毎晩少しずつ読んで行くことになりそう。

購入した作家はほとんどが、既に何作かを読んだことのある既知の(あるいは全て既読の)作家だけれど、トマス・ピンチョンは実ははじめて触れる。僕は文学を体系的に学んできた訳ではないので、ピンチョンの作品が文学史のどのカテゴリに入るのか(ポストモダン文学の異端者ということくらいしか)分からず、どの程度の文学的価値があるのかも分からない。でもとにかく以前から、その文体や粗筋になんとなく惹かれていて、いつか時間ができたらしっかり読んでみようという意思だけは持っていた。この歳になると、もう文学的・歴史的価値がどうかなんて、ほとんど気にならなくなるというか、急に人生も折り返し地点という気がしていて、そんなことに捕われていないで読みたいものを読んでいこうじゃないか、という開き直りもある。ついでに言えば、僕にとって小説はもともと、映像演出や写真のための「資料」でもある。絵を描けない僕は、イメージを構築するために主に言葉(…と、謎の図面)を使う。だから、言葉が枯れ果てていると、映像仕事が進まない。

そんな具合で僕は「趣味半分、仕事半分」の読書に復帰した。大抵、一日の作業を終えて布団に潜り込んでから本を読むので、不眠からも少しは解放されるんじゃないか。それにこの年末年始も例年通り、(映像の)編集仕事が多いので、どうせほとんど部屋に軟禁状態なのだ。レンダリング時間という名のアイドリング時間を、少しは有効に、楽しく過ごす年末年始にしたい。
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by akiyoshi0511 | 2012-12-15 22:13 | monologue

2012.12.13

国政は絶望的な状況で、仕事は相変わらず好機であると同時に崖っぷちで、公も個もあまりにも混沌としており、ほとんど判断がつかない。時々、大人の事情に否応なく飲み込まれて、相変わらず猫の額ほどの居場所を死守しているに過ぎない自分の立場を思い知らされたりもする。幸運な人を見ると、不幸に抗い続ける自分の脆さを痛感するものだ。

写真家の姿勢の話で、ふと友人が「世界を見るのがイヤだからファインダーの中に逃げ込むか、世界にしっかり目を向けつつファインダーの先にそれを見つけ出すか。」という両極の定義を挙げた。おそらく、今まではその両極で良かった。でも、これからはファインダーの中に逃げ込んでも否応なく社会情勢は入り込んでくるから、その拒絶/受容の力の質と量も問われる。

写真に限らず、作家のコンセプトとして社会や政治思潮を見据え、洞察し、尚かつ純粋にそれ自体を題材化して表現を行うことは、どうしようもなく難しい時局になってきた。インターネットの情報拡散と操作で、精査した論理の力が及ばない世界になってしまったから(蛇足だけれども、おそらく現在、もっとも権力側の情報操作に貢献しているメディアがtwitterだと思う)、もはや、テロ行為のように衝撃と賛否を呼び起こす際立った表現しか受容されなくなりつつある。
記憶に新しいものでは、震災発生直後の福島第一原発で監視カメラに向けてパフォーマンスを行った「指差し作業員」の例が思い起こされる。肯定か否定かを含め、人それぞれ解釈は異なると思うけれども、少なくともそれが自己自身を渦中に投じることで生じる「重み」に根ざした、いわば自爆テロのようなパフォーマンスだったことは疑いようもない。

映画監督の園子温の評価がこれまでにない程に上がってきているのは、彼が長年貫いてきた極端な斬り込み方に、社会情勢が追い付いてきたからだと思う。もはや彼は異端ではなく、もっとも真っ当な表現者に定義が変わりつつある。
僕は恐らく、後者の戦い方はもうしない、できないと言ってもいい。それは数年前のある時期から、僕自身の心身の状況が否応なく変わってしまったからだ。
だから、前者の姿勢のもとに、複雑に絡まった糸から信に能う一本のラインを手繰り寄せようと、四苦八苦しながらこれからも写真や映像を撮り続けることになると思う。

今週は、睡眠時間を削って2つの新作をあるコンペに送り込んだ。結果はさておき、作品は生まれたのだから無益なことではないだろう。間髪を入れず、年始の大きなコンペに、秋に撮影した枚数の多いシリーズを投入する。仕上げていないシリーズもあと一つ控えている。まずはそれらを全て出し切ってから、自分自身への審判を下したい。
思えば映像にせよ写真にせよ、これほど濃密に制作と向き合い、作品を量産した年は今までになかった。失策もあったとは思うけれど(出品会場に急ぐあまりオービスを光らせたりもしたし)、30代半ばに入っている自分に与えられた残り時間を痛感する中で、10の失敗の中に1の成功が含まれていれば、それでいいという考え方に必然的に変わった。仕事の映像も個人の取り組み同様、作品が一本でも多く世に出て、少しでも残って欲しい。

再検査になっていた血液検査に大きな異常はなかった。これはほとんど僥倖と言ってもいい。身体は(少なからず醜くはなったかもしれないけど)まだ大丈夫。思考も出来るし動くこともできる。投票もできるし、出品もできるし、仕事にも全力を注げるし、おまけに酒を飲んでも問題はないらしい。
朝に生まれ、午後には成熟し、夕方に老人となり、深夜に一度死に、翌朝生まれ変る。そういう日々の繰り返しを求めている。微かに脳裏に焼き付いたまま引き継がれるものは曖昧模糊とした記憶の情景や漠然とした想いだけであり、その記憶を個人の枠を越えて普遍化する力があるのなら、おそらく僕はまだ生きるべきではないか。
最初から疲れ果てている僕は、それでも次へと向かう意思を得る口実を考え続けるだろう。だから夜毎、酒を飲んで、写真を仕上げて、カミュとブコウスキーとトマス・ピンチョンを並行して読む。酒と本に深く潜る行為は、明日を迎えるために一度、自分を忘れ去る儀式のようなもの…。

ちなみにカミュの「ペスト」は10年振りに再度読んでいる。冒頭で主人公リウーの妻が街を出るのと入れ替わりに、ペストがその街で猛威を振るい始める。街に残ったリウーはそこから歩み始める。私情を埒外に置き、超然と善を貫くための準備ができているということだ。作者によって仕組まれた偶然が、主人公の善を裏から支えている。本当に良く出来た長編だと思う。重い題材でありながら、これほど安心して読める小説はそう多くはないんじゃないか。震災以後の世界で読むカミュは、少し違った趣がある。不条理の定義は、それが多くの人々の前に目の前の現実として立ち現れたとき、なにか別の性質のものに変わったのかもしれない。誤解を避けるために書いておくと、福島の現状とペストの悲劇の舞台を重ねて読んでいる訳ではなく、不条理と言うものに、個人的にあらためて惹かれて読んでいる。
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by akiyoshi0511 | 2012-12-13 09:46 | monologue

2012.10.29

信仰・遺跡・少数民族・遺伝子や性から解き放たれた未来の人間像。それぞれ一応の導線は引いている。これまで通り(むしろこれまで以上に)資料も読んでいるし、調査も下調べもするし、撮影もテストを含めて段階的に行っている。
同時に、凝り固まった物語や体系から逃げるようにして、全てを並行して進め、作業を切り刻んで断片化させている。

写真史に繋がることも、何かの歴史や自身の記憶を知る・感じるということも、マイノリティを擁護しつつ自分自身もマイノリティであるという意識も、最終的にはどうでも良かったのだろう。少なくとも「そこに託すもの」はもう何もない(実際のところ、何も託せないことに気付いたのだ)。
雨に悶えつつ、その心身の混乱を提示しようという意識「だけ」にチャンネルを合わせることにしたのだ、おそらくは。

これまでの写真作品とは違って、資料を漁ることも制作(撮影)をすることも、心の底から楽しんでいる気はする。しかも、その(制作の)動機が言葉にできない。明らかに動機がありながら、それを正確に言葉にできないということは、自分にとっては稀なことだと思う。
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by akiyoshi0511 | 2012-10-29 03:50 | monologue

2012.4.12

徹夜明けにも関わらず晴天に誘われて、来月の撮影のロケハンのために森へ入る。
ついでに現地の山林で明後日の美術セットの材料を調達。自分のクーペにぎりぎり入るサイズの2メートル近い枯れ枝(さすがに生えてるのを折ったりはしない)。

時間も予算もない時は大きな物も小さな物も、何でも手作りしてしまう。何年か前に渋谷の美容室のビジョン用映像を撮った時は、フラミンゴの羽根をモチーフにしたアクセサリーを自作した(アクセサリーを作るセオリーなんて知らないけど)。セットや衣装の材料には廃品も使うしホームセンターも使うし古着も使う。
いろいろなモノを見ながらイメージを組み立てることもある。リサイクルショップに半ば放置された漁船のガラス玉とか。そうなるとほとんどジャンク・アートの領域。

やっていることが自主映画の頃から基本的に変わってない。要は、厳しい条件で良いものを作ろうとする時の綱渡りのテンションが好きなんだろう。
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by akiyoshi0511 | 2012-04-12 13:20 | monologue

memo

週末など一応の時間がある日は、必ず一度は猫と遊ぶ。動物の「間合い」を見て楽しむ時間だ。
例えば猫はリップスティックの筒を転がしておくと必ず突進してくるが、リップスティックの脇に僕の手があると、常にその手も意識して遊ぶ。少しでも手が動くと、ジャンプして身じろぎする。入院して怪我の治療をしていた期間が長かったから、まだ、人間の手に対して恐怖心が強いのかもしれない。しかし、手をだらんと伸ばして放置しておくと、今度は飛びついてきて指を噛んだり軽く叩いたりして戯れ始める。リップスティックと同じように獲物代わりかもしれないし、母猫のことを思い出しているのかもしれない。同じ人間の同じ手なのに、猫にとっては恐怖の対象になったり獲物になったり、母親代わりになったりする。
そして、僕の手が猫を撫でようとすると、やはり一気に後じさりして警戒を示す。意味がぶれるどころか、180°変わったり、意味が一回転して元の場所に戻ってきたりするのだ。

人間の心も、実は同じくらい断片的なものなんじゃないか。同じものを見ていても、あるいは同じ人を見ていても、その印象は常に揺れ動いている。人間の精神には理性や言葉など、意味の変動を逐次チェックする機構が備わっている。けれど、そういうチェック機構が及ばないところで、本能的に感じる意味の変化もある。
自分以外の外部の存在が醸し出す気配に対して、言葉で説明ができず、ただの気分でも動物的感でもなく、第六感とか霊感としか呼び得ないものを感じることがある。どこまで考えても言葉に還元できない、奇妙な印象の持続。見たことのあるものなのに突然、「これは一体なんだったのか?」と、与えられていたはずの対象の意味を喪失してしまうのである。

自分の子どもの顔を見ても一瞬名前を思い出せず、奇妙な一匹のいきものに見えてしまったことがあると、知り合いがいつか言っていた。その時彼女は、とても不安になったのだという。
そういう感覚の中に突然放り込まれると、わたしたちは何らかの意味の糸を手繰り寄せようと足掻く。しかし一度意味を喪失した意識は、元いた場所にたどり着くことはなく、新しい意味を見つける訳でもなく、あみだくじの回路を、何度も出発点を変えて彷徨い続けるだけなのだった。
どこから出発しても「それらしさに満ち溢れた場所」に辿り着くことはもうないのかもしれない。

人や事物の表皮を停止させ、定着させることができる写真と言う装置には、そのような意味の喪失を促す効果があるかもしれない。写真の象は真実と幻想や理想の境界に止まり、こちらを静かに見据えている。わたしは冷静になってその像を見る。
これは一体、誰の姿なのか。既に存在していない姿形を元に、自分の心の中でイメージを再生していたに過ぎないのではないか。
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by akiyoshi0511 | 2012-04-07 21:36 | monologue

memo

昨日はずいぶん大切な場面が多かった。可能性のある訪問、振り返り覚悟を新たにする訪問、清々しく終えるための訪問。3つの時間・次元が交差した日。

作家としての生=コンセプトの本質を注ぎ込んだ名付け得ぬ行為と、その周縁にある営為を孕んだ作家業と、自己の表皮である技術や美学を集中的に発揮する仕事を、使い分けることは間違っていないのかもしれない。それらの区別が有益なのではなく、区別することで本質を崩さず深めることが重要。
現実を複写/静止させる表現は政治性と無縁ではいられない。その一方で、美術としての写真史のどこに自分自身を位置づけるのか意思表示が求められ、それを 探求し続けている姿勢を含めた総体が作家としての核となる。常に未完成でありながら、常に自己を言葉として引き出せる状態にしておく必要がある。

生き残るための仕事(つまり、商業的な撮影)も改めて必死にやる。同時に、美術ももっと必死に勉強しなくては。完成形は存在しない。従って「これで終わり」として平穏な日常に戻ることもない。ベンヤミンの言葉を思い出す。馬鹿でも無能でも、学び、考え続けることで少しは救われるかもしれない。

「境界のエリア」と「時間」。作家としての僕が意識しているものはその2つしかない。常に問題とされるのは、その意識の深さと言葉の質や量。観想や勉学に潜り続けることはできないし、実際の経験や体験も糧とするので、やはり簡単に押し広げられるものじゃない。
おそらく次の一歩をクリアするまで5年とか10年はかかる。一歩前進だけでも5年10年。このある種の「間合い」は、結果として縮めることができるにせよ、縮めることを意図してはならない。

思えば写真を始めて7年目になる今年、自分がいるのは始めた段階から一歩前進した地点に過ぎない。それだけでも人生にとって大きなことだけれど。すべてはこれからなんだろう。
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by akiyoshi0511 | 2012-04-06 13:02 | monologue

「3.11」への私感

震災が起きたとき、僕は一年で最も忙しい時期で、深夜にテレビやツイッターで情報収集するのが精一杯だった。震災を考える間もなく業務に追われてしまうことの無力感は生涯忘れられないだろう。
当時の北海道の、どこか安穏とした空気も忘れられない。北海道にいて良かったという言葉を何度、耳にしただろう。テレビから刻々と伝わる原発関連の報道を観ながら、半ばお祭り騒ぎの人もいた。恥ずかしいことだと思った。

自分自身も、募金以外の活動ができなかったのが事実。募金が正しく使われるとは限らないと薄々感じていたのも事実。職場とコンビニの往復生活の中で、自分にできることはそれくらいしかないと諦めて、免罪符のように毎日500円をレジの募金箱に入れ続けた。

写真洗浄のボランティアも、当初はとても微妙な気持ちで取り組んだ。写真家である自分が他者の写真に慈善と言う名目で関わることに対して、100%前向きだったかと言えばそうではない。けれど、そこで震災の生々しい痕跡(現場に比べれば微かなものだけれど、写真と向き合っている者だからこそ分かる物々しさがそのプリントから伝わってきた)に触れたのは、間接的だけれど唯一の震災「体験」と言える。本当に恐ろしいことが起きたのだと、僕はその時初めて実感を持つことができたかもしれない。写真を洗って被災した方々の助けになるという気持ちはなく、ただただ、腐朽しはげ落ちたプリントから漂う死の匂いに怖れ戦きながら、それらの写真と向き合った。
ボランティアを手伝ってくれた学生たちには、そういう自分個人の想いではなく、学生の人生の糧になることを、なにか一言でも伝えたいと必死に言葉を探していた。何を話したか覚えていないから、きっときちんと本質を伝えられなかったのだろう(もしも時間を元に戻せるなら、今ここに書いているようなことを学生に伝えたいと思う)。

自分には震災1年と言う区切りはないと思っている。震災発生直後に現場を訪れることができず、被害を本当の意味で実感することがなかった僕のような者は、1年後の今日を区切りの日として捉えてはいけないと思っている。
今まで通り毎日のようにこの問題を考え続けて、今まで通り自分にできることを探し続けるだけ。そしてひとまず今、具体的に見えているのは5年くらい後に自分が現地で(おそらく写真で)なすべきこと。

個を見失わず、時局に埋没しないスケールで震災を考え続けたいと思う。
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by akiyoshi0511 | 2012-03-11 15:18 | monologue

節目に猫

石狩浜で怪我をした仔猫を拾って、土曜日から自分のスタジオで面倒を見ている。一度助けてしまった命なので、寿命を全うするまで家に置いておくつもり。
猫は右前足に重傷を負ってひどく化膿しており、万が一その傷から壊疽が始まれば長くは生きられないかもしれない。足を切断する手術が非常に高額なのでそこまで手をかけられず、消毒と抗生物質を与え、あとは本人の回復力次第。幸いエイズも白血病もないので、それ以外の危険はない。

もしも土曜日の午後に、編集の合間の休憩で石狩までドライブをしていなければ、この猫には出逢わなかった。路傍の吹きだまりで凍えている猫を見て、連れ帰ろうか悩んで何度か現場を繰り返し訪れるうちに、退くに退けない状況になり、半ば成り行きで連れて帰ることになった。

これまでも人生の節目ごとに、必ず野良猫との関わりがあったので、今回もきっとそういう類いの出会いだろう。いずれにしても、無事足の傷が癒えた場合は、今後10年は生活を共にすることになる。そして、仮に猫の10年後を見ると言うことは、自分もあと10年は生きていると言うことになる。

愛玩動物という言葉があるが、野良猫を保護したり地域猫の世話をする場合、その言葉は当てはまらない。
ごく単純に、自分以外の命を全面的に(あるいは部分的に)引き受けるだけの話で、それ以外の感情はない。
それでも、狭いスタジオの隅に段ボールで設けた猫の居場所からカサカサと音がすると、それだけで心が和むし、元気が湧いてくる。飼っている動物を死なせないために生きる、というどこかの作家の気持ちも、少しだけ理解できる。
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by akiyoshi0511 | 2012-01-26 03:04 | monologue

映像作家・写真家 北川陽稔 http://www.akiyoshikitagawa.com/


by Akiyoshi Kitagawa

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