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2012.4.12

徹夜明けにも関わらず晴天に誘われて、来月の撮影のロケハンのために森へ入る。
ついでに現地の山林で明後日の美術セットの材料を調達。自分のクーペにぎりぎり入るサイズの2メートル近い枯れ枝(さすがに生えてるのを折ったりはしない)。

時間も予算もない時は大きな物も小さな物も、何でも手作りしてしまう。何年か前に渋谷の美容室のビジョン用映像を撮った時は、フラミンゴの羽根をモチーフにしたアクセサリーを自作した(アクセサリーを作るセオリーなんて知らないけど)。セットや衣装の材料には廃品も使うしホームセンターも使うし古着も使う。
いろいろなモノを見ながらイメージを組み立てることもある。リサイクルショップに半ば放置された漁船のガラス玉とか。そうなるとほとんどジャンク・アートの領域。

やっていることが自主映画の頃から基本的に変わってない。要は、厳しい条件で良いものを作ろうとする時の綱渡りのテンションが好きなんだろう。
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by akiyoshi0511 | 2012-04-12 13:20 | monologue

memo

週末など一応の時間がある日は、必ず一度は猫と遊ぶ。動物の「間合い」を見て楽しむ時間だ。
例えば猫はリップスティックの筒を転がしておくと必ず突進してくるが、リップスティックの脇に僕の手があると、常にその手も意識して遊ぶ。少しでも手が動くと、ジャンプして身じろぎする。入院して怪我の治療をしていた期間が長かったから、まだ、人間の手に対して恐怖心が強いのかもしれない。しかし、手をだらんと伸ばして放置しておくと、今度は飛びついてきて指を噛んだり軽く叩いたりして戯れ始める。リップスティックと同じように獲物代わりかもしれないし、母猫のことを思い出しているのかもしれない。同じ人間の同じ手なのに、猫にとっては恐怖の対象になったり獲物になったり、母親代わりになったりする。
そして、僕の手が猫を撫でようとすると、やはり一気に後じさりして警戒を示す。意味がぶれるどころか、180°変わったり、意味が一回転して元の場所に戻ってきたりするのだ。

人間の心も、実は同じくらい断片的なものなんじゃないか。同じものを見ていても、あるいは同じ人を見ていても、その印象は常に揺れ動いている。人間の精神には理性や言葉など、意味の変動を逐次チェックする機構が備わっている。けれど、そういうチェック機構が及ばないところで、本能的に感じる意味の変化もある。
自分以外の外部の存在が醸し出す気配に対して、言葉で説明ができず、ただの気分でも動物的感でもなく、第六感とか霊感としか呼び得ないものを感じることがある。どこまで考えても言葉に還元できない、奇妙な印象の持続。見たことのあるものなのに突然、「これは一体なんだったのか?」と、与えられていたはずの対象の意味を喪失してしまうのである。

自分の子どもの顔を見ても一瞬名前を思い出せず、奇妙な一匹のいきものに見えてしまったことがあると、知り合いがいつか言っていた。その時彼女は、とても不安になったのだという。
そういう感覚の中に突然放り込まれると、わたしたちは何らかの意味の糸を手繰り寄せようと足掻く。しかし一度意味を喪失した意識は、元いた場所にたどり着くことはなく、新しい意味を見つける訳でもなく、あみだくじの回路を、何度も出発点を変えて彷徨い続けるだけなのだった。
どこから出発しても「それらしさに満ち溢れた場所」に辿り着くことはもうないのかもしれない。

人や事物の表皮を停止させ、定着させることができる写真と言う装置には、そのような意味の喪失を促す効果があるかもしれない。写真の象は真実と幻想や理想の境界に止まり、こちらを静かに見据えている。わたしは冷静になってその像を見る。
これは一体、誰の姿なのか。既に存在していない姿形を元に、自分の心の中でイメージを再生していたに過ぎないのではないか。
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by akiyoshi0511 | 2012-04-07 21:36 | monologue

memo

昨日はずいぶん大切な場面が多かった。可能性のある訪問、振り返り覚悟を新たにする訪問、清々しく終えるための訪問。3つの時間・次元が交差した日。

作家としての生=コンセプトの本質を注ぎ込んだ名付け得ぬ行為と、その周縁にある営為を孕んだ作家業と、自己の表皮である技術や美学を集中的に発揮する仕事を、使い分けることは間違っていないのかもしれない。それらの区別が有益なのではなく、区別することで本質を崩さず深めることが重要。
現実を複写/静止させる表現は政治性と無縁ではいられない。その一方で、美術としての写真史のどこに自分自身を位置づけるのか意思表示が求められ、それを 探求し続けている姿勢を含めた総体が作家としての核となる。常に未完成でありながら、常に自己を言葉として引き出せる状態にしておく必要がある。

生き残るための仕事(つまり、商業的な撮影)も改めて必死にやる。同時に、美術ももっと必死に勉強しなくては。完成形は存在しない。従って「これで終わり」として平穏な日常に戻ることもない。ベンヤミンの言葉を思い出す。馬鹿でも無能でも、学び、考え続けることで少しは救われるかもしれない。

「境界のエリア」と「時間」。作家としての僕が意識しているものはその2つしかない。常に問題とされるのは、その意識の深さと言葉の質や量。観想や勉学に潜り続けることはできないし、実際の経験や体験も糧とするので、やはり簡単に押し広げられるものじゃない。
おそらく次の一歩をクリアするまで5年とか10年はかかる。一歩前進だけでも5年10年。このある種の「間合い」は、結果として縮めることができるにせよ、縮めることを意図してはならない。

思えば写真を始めて7年目になる今年、自分がいるのは始めた段階から一歩前進した地点に過ぎない。それだけでも人生にとって大きなことだけれど。すべてはこれからなんだろう。
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by akiyoshi0511 | 2012-04-06 13:02 | monologue

北川陽稔のブログ http://www.akiyoshikitagawa.com/


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