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2014.12.31

今更ながらヴェンダースの「Palermo Shooting」を観た。全盛期のヴェンダースを知るものとしては全く期待していなかったのだけれど、ベッヒャー・スクール的な現代写真美術への憧憬と自己批判や、20世紀から現在までのビデオアートへのオマージュが随所に散りばめられていて、想像以上に楽しめた。ロードムービーの新たな境地とまでは言えないと思うが、ヴェンダースらしく、作り物と即興の境界で、あくまでラフに、かつ全力で戯れている構成は見ていて飽きなかった。

少なくともヴェンダース映画の最大の美点である、デジタルによる映像を疑いながらも、それを包含した映像の未来を真摯に見定めようとする姿勢には回帰できている(その論旨がクリティカルかどうかはともかく)。すでになし崩し的に状況が変わり果ててしまった時代にあって、映像というメディア、あるいは映像におけるメディウムのアウラや影響力を真摯に突き詰めてゆくことはほとんど時代遅れなのだが。写真のネガに関する劇中の「死神」の言及など、ここにもまだボードリヤールの亡霊が息づいていた。思うところが多く、年の暮れに見ておいて良かったと思う。

なぜボードリヤールの残した言説が既に無効なのか、それを今更ここで述べたてる必要はないと思うが、コンシューマ環境を含めたデジタルの解像力が肉眼レベル、あるいはそれ以上に達した現状にあって、写真・映像というものはCCDに依拠する光の蒐集行為に変化した。仮にフィルムの感光に根ざしていたとて、ほぼ全てのケースでデジタル処理・出力を伴う時代になっている以上、写真におけるメディウムはその統合された環境から見定めてゆくものであって、フィルム「のみ」が真の写真であるという思考は、そもそも写真というメディアを包括的に見ておらず、「作家主義(イメージの匿名性も含め)」の妨げとなる不都合な状況から目を逸らしていることにすぎないということになってしまう。いくら「世界よ反転せよ」と祈りながらシャッターを切ったところで、ネガフィルムは今や、ただのレトロスペクティブな触媒であることは否めないはずだ。コダックの崩壊はフィルムの時代が終わったのではなく、フィルムのもたらすある種の神話とレトリックが崩壊したことを意味している。例外的に言えば杉本博司のように、感光の科学的作用を作品のコンセプトとして引用している場合を除き(あるいは多重露光の再現不可能性なども辛うじてまだ有効であるかもしれず、現に自分はその範疇において今でもフィルムを使用している)、趣味趣向の領域と言われても致し方ない状況から目を逸らすことはできないだろう。

デジタルの情報不足が明らかだった10年前と今では、写真(や映像)のメディウムの取り扱いは上記のように本質的に変化している。そんな時代においても、ヴェンダースはいつもビデオやデジタルを「曖昧に」受け入れながら懐疑的な姿勢も継続するという、如何にもヴェンダースらしい態度を取る(「都市とモードのビデオノート」で、ビデオ・フッテージをフィルムカメラで撮影して見せたように)。
仮に同輩のヘルツォークなら「聖なる映画の時代は終わった」と断言した上で、堂々とデジタルシネマの可能性と向き合うだろう。現にそうして、誰よりも早く世界最古の洞窟壁画を3D映画に仕立てる。蛇足になるけれど、ロマン主義的に見えがちなヘルツォークの本質は、限りなく野蛮で怜悧なロマンの破壊にある。3Dとの向き合い方にもそれは率直に現れていた。相変わらず彼自身がフィツカラルドであり、アギーレだ。ピナ・バウシュを撮ったヴェンダースと、そういうところも好対照。
by akiyoshi0511 | 2014-12-31 15:53 | dialogue