memo_7

なんらかの事情で自分が消えてゆこうと世界は何一つ変わるまい。しかしいま己の視線が捉えたもの…世界の側から立ち現れる一瞬のスタティックな歓喜…は、こうしてひとつひとつフィルムに記憶されていく。肉親でも友でも見知らぬ人でも、異星人でもいい(それは殆ど理想的なことなのかもしれない)、未来に誰かがそれを感じ取ってくれるなら、それだけで充分である。

写真や映像が誰かを幸福にする…もしもそういう甘い期待を持てるならば、それは僕自身の記憶としてではなく、匿名の視線として現前する、確たる論理性(の末に、それ自体を)を粉砕する歓喜であってほしいものだ。たとえば、宮沢賢治が深遠なる悲壮に支えられてあの「夜来る歓喜」を著したように。人の認識を越えた表現というものは、その人の論理の消失点そのものでもある。

地平線の向こうからやってくる星雲を視野に微かに捉えたとき、その人はもうほとんど死に近づいているのかもしれない。その人の存在は切り離された視線そのものに凝集され、己の物質的存在はどうでもいいものとなっているだろう。肉体から離脱をしてまで、己の肉体に興味を持つ必要はない。幽体離脱体験者の語る映像のほとんどが「自らの身体を顧みる」ものであるという報告は、それはまだ生きる意思に支えられたものであるということを暗に裏付ける。
おそらく、安らかに死にゆく者にとっては違う体験となった筈である。ただ世界に遍在する視線、ただ漂う気配、つまり偏在する視線そのものに変化し、世界の片隅の図像を垣間みることになるだろう、その体験は(意識も肉体も潰えるのだから体験ですらないのだが)、フラッシュバック(この安手な表現は表層の感情を煽るためのものでしかない)のようなものではなく、低空で漂う気球のような、浮遊する眼となる静かで永続的なものかもしれない。
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by akiyoshi0511 | 2006-07-17 13:48

映像作家・写真家 北川陽稔 http://www.akiyoshikitagawa.com/


by Akiyoshi Kitagawa

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