2017年 12月 31日
2017年の終わりに
大樹町滞在中に知人から教えてもらった、Beckの "Morning Phase" を札幌に戻ってからもほとんど毎朝聴いている。
二十歳になるかならないかの頃に毎日のように聴いていたBeckから、軽くタイムスリップするかのように20年振りのBeck、音楽はほとんど別物だけれど、そこには明らかに自分が辿ったのと同種の時間のヴァイブレーションの変遷を感じる。つまり、年齢を重ねながら世界の趨勢を見つめてきた帰結として、このナチュラルな音に至っているという勝手な思い入れに答えてくれるものなのだ。いちリスナーとしての感想。
30日の夜、森岡書店の店主が書いた「荒野の古本屋」がおもしろくて一晩で読んで、ある時代の懐かしさにも触発されて、少しずつ自分自身の言葉を奪還して‥いや、取り戻していこうと心を決める。全てが地続きではなくとも、何か一本の線でつながっている、という閃きは大切だと思う。
この国の航路は確定し、オリンピックという「聖戦」も近づき、自分はそんなものごととは無関係に、そろそろ退っ引きならない40歳を迎える。SNSの時代には付いて行くのが精一杯で個人の発言の重さを測りかねており、もはやブログで国策批判すらできないけれど、実際のところ、その種の批判を含めた包括的な正義や悪にはもうほとんど興味がない。政治に関心がないわけではないし投票もするけれど、それは一人の社会人としての良識の範疇での意思表示だと割り切っている。
今年亡くなった塩見孝也氏が最後まで貫いたものに、僕はもう関心すらないのだ。故人への個人的なリスペクトと、その思想への距離は別のレイヤーにある。人は変化しながら戦うべきで、凝固した意思を繰り返し社会にぶつけることでは活路が見出せないのではないか。己の中のか細い一本の糸を信じながら、囁くこと、囀ること、風のように振る舞うこと…。僕はそういう均衡を大事にしながら人生の後半を迎えたいと思っている。
一昨日、2017年の最後の撮影で、洞爺のガラス作家さんの仕事を撮らせていただいた。10年前、北海道に来たばかりの頃に作品を知ったその人とは、5年前にある仕事で間接的な関わりが生じて、10年目の今年になって初めて直接仕事をしている姿を撮ることができた。10年前の僕の目には、北海道というフィールドも、その人の仕事も憧れの世界に見えたものだった。
次に接点が生じるのは何年先だろう。あるいはもうないのかもしれないが、その人の仕事を撮るという本質的な対峙のところまで経験できて、今年は、最後の最後に風通しの良い場所に立たせてもらった気がする。
by akiyoshi0511
| 2017-12-31 13:53
| monologue