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2005.11.1

ロンドンの事件、最初のテロを論拠にアメリカの不当性を切実に訴えたものほど、今回のテロのショックは大きいだろう。もはや悟性をもって立ち向かうにはあまりにも滑稽な状態だからだ。決死の抵抗に見せかけていたものの、その本質さえ欺瞞に過ぎない以上、はじめから欺瞞であることに居直っている側は大手を振って道を闊歩するだろう。それは、私たちの日常にも今まで以上に影響するに違いない。ロンドンでの射殺事件を軽視してはならないとわかっていても、既に皆、疲れ果てている。

統計学的にアメリカを糾弾しても、非暴力不服従の精神に活路を見出しても、宗教画のようなかがやきを放つ写真に世界のほんとうの温もりを伝えても、巨大な動きはなにも変わらなかった。そんなことで世界が変わるほど、生易しい時代ではない。せいぜい大いなる反復のなかで一瞬の安息を感じているだけだ。
せめてこの地球を傷つけないこと…一部の知識人を中心にささやかれているエコロジーには、共感を覚えるものの諦めと退行も感じる。人間はもう、文明を手仕舞いにする時期なのかもしれないという暗喩が隠されているようで。

これまで何かを否定的にとらえる時は、可能な限りその心情を裏付ける上部構造のようなものを明らかにする努力をしてきたけれど、そういう方法にさえ限界を感じる。論じ手の中で展開する脆弱な弁証法は、おなじ論理体系を持たない他者から見れば不可解で滑稽なだけなのかもしれない。論理は結局のところ実効力を持たない。

怜悧な無視に打ち克つためにも、目を凝らさなければ見えないものを最初からそんな領域は存在しないと言いきる暴力に対して、「無視できない」映画でせめて一矢報いることができれば、と考えてきた。「そんなに世界をおもうなら、なぜボランティア活動をしにイラクへ行かないのか」と誠実な友に言われたことがあるけれど、テロリズムでもなくボランティア活動でもなく、自分は一本の映画だと信じて疑わなかった。ある作家が言った「自分の持ち場」という言葉を信じたかったし、自分に可能なことのなかで最も効力のある方法をとるべきだと思っていたから。

前作はその取り組みのパイロット・ワークで、草の根的な都市論の映画だった。都市空間を分析的に捉えるということは、都市空間を規定する側の欺瞞をあばくということだ。それを視覚的にかろやかに超越させて、映像作品として結実させることが目標だった。作家としての道を切り拓くのとほとんど同時進行で、専門学校の非常勤講師という教育の現場にいた。商業性を糾弾する「古くさい」やり方を非難されながら、同世代の学生たちと一緒に、映像のシンボリックな効果を深く考え抜くことからはじめた。映像の象徴性を解読することはコマーシャルのトリックを知ることでもあったからだ。最後の年、同時代の写真家や、メカスをはじめとする映像作家、そしてヴェンダースやタルコフスキーに至るまでを「ものを視ること、考え抜くこと、伝えること」を軸に半期をかけて検証した(今なら「超越すること」をその軸に加えると思う)。そのときの、一部の学生の真剣な眼差しや、誠実な受講態度は忘れられない。僕も同じ地平で考え、余裕のない態度が間抜けに見えることも承知で毎回声高に語った。当時の自分なりに「語り抜いた」と言ってもいい。

5年目にひとまず講師を辞めることを決めた直後、『LOSTBALL』が、A・ウォーホルやオノ・ヨーコが名を連ねる映画祭の片隅に場を与えられた。教えていたすべての学校を去って数日後の入選通知だった。それは自分を表現者と規定する最低限度の資格と考えたいし、同時にその責任を負うものとも考えている。そしてその帰結として、いまの映画がある…。
しかし先に書いたように、この論拠そのものに、いったい如何ほどの価値があるだろうかという疑いもまた、常に自分を苦しめてきた。最初に書いたように、聞く耳も考える姿勢も持たない人たちを相手にするときそれは顕著だった。世界の情勢と相まって、今それがさらに辛辣に、自分自身を刺してくるように思える。

完成した映画をスクリーンに掛けた瞬間に、己が途方もない時間と手間をかけてただ赤恥をかいただけなのか、それとも何かに一矢報いることができたのか、明らかになる。もしも生き恥だと感じたら、二度となにかを表現したりはしないだろう。
by akiyoshi0511 | 2005-11-01 20:34