Akiyoshi Kitagawa Archives
2024-03-15T23:14:52+09:00
akiyoshi0511
映像作家・写真家 北川陽稔 http://www.akiyoshikitagawa.com/
Excite Blog
ある午睡の、約20年後
http://nizo.exblog.jp/33818360/
2024-01-30T23:56:00+09:00
2024-03-15T23:14:52+09:00
2024-02-01T23:13:19+09:00
akiyoshi0511
未分類
そのタイミングに合わせて、個人のサイトを約10年ぶりに刷新した。
akiyoshikitagawa.com
このサイトのコーディングは仕事仲間の協力で成り立っている。ディティールに煩い私が組んだそこそこ面倒なデザインにも関わらず、それを1日で形にしてくれる才能が身近にいる。他にも、自分が集中するために他の案件を担ってくれるエディターがいる、仕事のスケジュールが崩れないように細々としたことまで支えてくれるマネージャーがいる。
周囲のエネルギーや活動時間を分けてもらって、私生活のタイトロープを持ち堪えながら、20年来の仕事の目標を叶えている。否、叶えさせてもらっている。このサイトに並んだサムネールを見るとそういうことを強く感じる。
サイトの刷新と同時に、この旧式のブログは更新停止にすべきと悟りながら、ここにこびり着いている20年弱の足跡を、やはり簡単には棄てられない。なぜなら、ここで言葉を紡ぐ限りにおいて25歳の自分と45歳の自分は今も地続きになるから。そしてここには、既にかすかに「二世代の」記録が生じてもいるから..
関東のダム湖の管理道路でひぐらしの声を聴きながら昼寝した記憶は、当時のブログを読めばまるで昨日の出来事のようにプレイバックできるし、20年後の自分は根本的に往時とそれほど変わっていないように思えてくる。このログは幾重も折り重なる記憶の断片で、ああでもないこうでもない、あれもこれもの試行錯誤の記録でしかないが、日記というものは便利なもので、目を逸らしたい時期の記述は読み飛ばすこともできる。
日記のはじまりから約20年経って、映像も写真もやっと最小限納得の行くものを形にできたに過ぎない。今回刷新された個人のウェブサイトには、近年のマイルストーンが散りばめられているとは思う。こんなに美しいものを手掛けてきた…ではなく、作らせてもらったと感じる。そして、ウェブサイトに反映された履歴は文字通りここ数年の足跡だということ。つまり、大きな括りでは日記的なものだと。
あの短い路上の昼寝から覚めると、約20年が経っていた。
目覚めてみれば窓の外には雪が積もっていて、今夜から流氷を撮りに知床に向かう。
Akiyoshi Kitagawa 2024
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摂理の外側
http://nizo.exblog.jp/33004882/
2023-04-15T06:39:00+09:00
2024-01-28T19:01:21+09:00
2023-04-15T06:39:53+09:00
akiyoshi0511
未分類
北海道の自然・自然科学と向き合う映像制作をいろいろと担当させていただく中で、このHOSPOは自分の中で特異点かつ興味深いステージ。地球上の諸生物は言わずもがな地球環境(大気・土壌・水)の中で種の存続を模索しています。中でも、地球の資源を濫用しながら高度な物質文明を築いてきた私たちは、必然的に、地球環境との間で持続的な産業や経済、社会の仕組みを考えていく宿命をも負います。
その上でリアルな生活に目を向ければ、北海道の経済基盤として農林水産の一次産業や、自然環境、それらを内包する観光の視点は最重要で、自分の仕事の多くもそれらに紐付いています。基本的には、これらの資源・資産を損なわないように注意深く、経済の波に乗せていくのが現状の最適解ということにはなります。
一方で、広大な土地の活用方法としてスペースポート事業や宇宙産業が実践されることは、北海道が人類の存続を模索するうえで重要な場になっていくことを示唆します。
世界的にも恵まれた北海道の自然を未来に繋ぐためには、土地や資源を外資に切り売りして延命するのではなく、ネットワークやテクノロジーによって大きく変化しはじめた市場経済と向き合うロジックも必要。
そういった視点を加味すると、地球上の資源を争うのではなく、重力の外側に市場を拓く宇宙産業には可能性を感じます。
民間の宇宙産業によって戦争がなくなるわけではないという矛盾はありますが、それでも信じたいと思わせる一定の説得力があるということです。
●番組本編はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=dGt67BTbaoI
●私が監督・撮影した北海道スペポースポートのPV(2021年制作)
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2023.1.1
http://nizo.exblog.jp/32913747/
2023-01-01T14:39:00+09:00
2024-02-01T22:56:50+09:00
2023-01-01T14:39:53+09:00
akiyoshi0511
未分類
大晦日は22時頃まで制作をして、その後は少し酒を飲んで放心していた。いつ年が変わったのかもわからないし、目が覚めたら既に元旦の10時。
途中、いま遠くの街にいる2歳の長女の夢を見たのは覚えているが、吉夢なのか凶夢なのか。忙しない展開だったことを除いて内容はほとんど覚えていない。
ぼんやりしたままルーティン通りトーストを焼いてコーヒーを淹れる。この豆をくれた人とは今年仕事をすることはあるのだろうか?などとあまり意味のない心配をした。コーヒーを啜りながらふとアマプラを開いてしまって怠惰な元旦だなと思いかけた時、何かが耳に引っかかった。
スタジオの裏の雑木林で鳥たちの大合唱が響いていた。この場所に越してきて3年と少し、過去に覚えのない祝祭のさえずりの渦。それはほとんど滝のように激しい共鳴だった。
それをひとまず携帯で撮ってから、手元にあったR3と200ミリレンズで観察する。ヤドリギの実を無心で食べるヒヨドリたちに混じって、アカゲラが木を突いているのが見えた。アマプラで始まりかけた元旦は期せずして、なかなか贅沢な祝祭の朝に変わる。
日常と非日常、惰性と覚醒、自己と環境、家庭と仕事..それぞれ今年はどんな年になるだろう。
いずれにしてもすべてが試される一年がはじまったのだと、静かに覚悟を決めて仕事に戻る。
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Invisible Red
http://nizo.exblog.jp/32910825/
2022-12-29T00:40:00+09:00
2022-12-29T13:15:57+09:00
2022-12-29T00:40:47+09:00
akiyoshi0511
未分類
展示としては約2年ぶり、そして写真ベースの新作展としては6年が経っています。個展ではないものの、自分でも俄には信じられないブランクの長さ。
この間、新しい作品を作ることを忘れていたわけではないし、諦めていたわけでもない。端的に、納得のいくものになるまで6年かかったというところです。
もちろん、30代とは比較にならないほど仕事も私事も忙しないので、それなりに環境的な要因もあるのですが。
今回は少なくとも自分にとっては、過去のラインナップとは異なる文脈の写真作品であり、幾つもの試作の末に、ここ数年でやりたかったことを詰め込んでいます。
列記すれば、異なる波長域のダブルイメージ、森で感じるサラウンドと多視点性の画像化、フラクタル的な樹状構造の描出、人間の知覚を対象の知覚でカットオフすること..
実はこれは友人の写真家に送ったメッセージの一部で、走り書きですが必要な切り口は網羅されているように思います。
北海道で活動する8人の作家が参加する展覧会のリンクと、イメージを一枚貼り付けておきます。作品のタイトルは「Invisible Red」で、写真と、関連インスタレーションを出展します。
前作から6年を経た新作ですのでそれなりの背景があるのですが、ひとまず今は情報はこれくらいにしておきます。展示が始まってから、ブログやそれ以外の場所でこのシリーズに至るまでの思考を晒してみる予定です。
展覧会情報「札幌美術展 昨日の名残 明日の気配」
https://artpark.or.jp/tenrankai-event/kinoasu2023
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重力と光
http://nizo.exblog.jp/32449969/
2021-10-02T23:08:00+09:00
2021-10-02T23:27:05+09:00
2021-10-02T23:08:12+09:00
akiyoshi0511
未分類
その心は「地球環境を考えたいなら人類が消えるべき」というアポリアに対するアイロニーなのかもしれない。
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「疎の場所」から
http://nizo.exblog.jp/33818324/
2021-06-04T23:14:00+09:00
2024-02-09T10:16:52+09:00
2024-02-01T22:47:46+09:00
akiyoshi0511
monologue
過去の文脈とは異なる作品制作について考え始めてから、もう5年以上経つ。
プロトタイプのようなものを初めて小さなギャラリーショップで公開したのが2年半ほど前、その後は一年前に制作のリサーチとして数日屋久島に滞在して写真を撮り、以後は手が止まっていた。
少し話が逸れるけれど昨年の1月初旬、中国の南京でアートプロジェクト(舞台映像)を担当するため下見に行って、帰国して一週間でコロナ禍が始まった(今思えば顕在化する前に戻れたことが幸運とも言える)。言わずもがな中国の仕事は流れ、もろもろの混乱を潜り抜けて10月に二人展に参加した。春の外出自粛期間にプランを考え倦ねた末に、件の新たな文脈の作品ではなく、7年くらい前に撮りはじめて途中で止まっていたフィルム写真のシリーズと、その続編を出品することに決めた。
それはあらゆる想定を越えたコロナ禍のデストピア的風景への情景反射であり、会場となった(空間自体が多くの作家の痕跡で成り立っている)context-sへのリスペクトでもあった。世界そのものが静止状態ゆえに、「立ち止まる」ということが特別な意味を持つ、そういう年だったことは間違いない。
久しぶりのフィルムでの撮影はほとんど無意識と戯れるような行為で、やはりデジタルでの構築的な作業とは全然違う。しかしそれは作者のプロセスの問題に過ぎないし、未だにフィルムが聖域だと信じている人たちのことは理解できない。大事なのは何に突き動かされてどんな画像なり造形物が生じたか…環境と五感とその奥の回路の関係だ。わたしは写真で空想を描くつもりはないし、何らかのイデオロギーを振り翳すつもりもない。少なくとも、それらはやりたくない。
他にもこの小規模な展示には個人的にいろいろなものが詰まっていた。過去の自分と今の自分の邂逅、中村眞弥子さんという光を描く画家との邂逅、そして石神照美さんとの再会。
今年の1月には、札幌のSCARTSのプロジェクトに参加した。こちらは職業人として傍らから状況を記録するスタンスだった。それなりに体を張ったとは思うけれど、ここで何か新しい取り組みを行ったわけではない。
「生態学」という分野は、自分の長い新作準備期間の情報ソースと多くの点・線・面で繋がっていて、この上なく楽しいものの自分自身の作品ではないという、不思議な前提と微妙な距離感を意識しながらも、ひとまず実制作では小さな壁を一つ越える、…そんな取り組みになった。
冗談交じりで関係者の作家に「あなたは希少種」などと言われながら、兎にも角にも、どこにでも生存できるわけではないけれど、特定の状況では特別に機能する個体でありたいとは思った。
こういった取り組みに参加して、何日も徹夜して制作に臨んでしまうのは、やはり作品を作るという営為が未だに自分にとっては最も重要な、生きるために欠かさす事ができないミッションだから。
たとえ仕事の制作が好調でも、そんなものは何かと何かの組み合わせが変化すれば一瞬で消し飛んでしまう世界なのは承知している。社会で生きることはそもそも不確実性の波乗りだと思う。しかもその波乗りには持ち時間の(つまり起きている時間の)大方を費やすことになる。止まれば、沈む。
一日の全てを読書に費やし、誰が読むともわからない文章をしたため、それを咀嚼し考えるという、ある種のライフワークなり意識のライフサイクルを失って、もう10年以上経っている(それがどれほど贅沢な日々だったか、30代前半までの自分に言い聞かせてやりたいが)。言い換えれば、制作のための情報を集め、煮詰め、何か未知のものとして異化(羽化)するまでの工程が、出口の見えない間延びしたものになった。作家としての意識は時空の引き伸ばされた長屋のような場所に安置されていて、さらにそこに立ち入ることができるタイミングも時間も限られていて、日々少しずつ蒐集した情報をそこに置きに行く…といった具合。
蓄積した情報は風化しないし、腐らない。必要なのはそれらの材料と向き合い火にかけるだけの熱量が自分の思考に戻ってくることと、その作業に集中する時間をセッティングすること。それだけだなのだが、それがなかなかできなかった。
その「長屋」という空間はウェブに実在していて、映像制作の業務管理で使用しているビジネスチャットツールの片隅にある場所を示す。一年を通してあまりにもそのツールを使用する時間が長いので、いつの間にか作品のメモや参考URLも、レシピや日記の断章さえそこに仕舞い込むようになっている。
自分だけのグループを作り、そこに制作の関連情報やアイデアを書き溜めているものが、結実できないままもう5年以上経っている。断続的に更新され、意識されている作品制作のためのノート。タイムラインに放り込まれ蓄積されていく情報や制作メモの序列は、まさに長屋的だと思う。
今年はその新作のまとめに打ち込むことに決めた。
長屋の鍵を開けて決着をつけるタイミングは、こうして突然来る。
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近所の自然
http://nizo.exblog.jp/31196956/
2020-05-22T19:29:00+09:00
2023-04-15T06:54:19+09:00
2020-05-22T19:29:04+09:00
akiyoshi0511
未分類
土曜の川歩きで拾ったもの。今まで自分で見つけたツノの中で、一番整っていて立派な気がする。
この一本のツノを織り上げているアルゴリズムとはなんだろうか。あるいは鹿という生き物の身体を、様々な機関によるアルゴリズムの総体として考えてみたくなる。
例え身体が同じDNAプログラムで成り立っていても、フィールドで課される条件を経て、選択や結果は変わる。ツノがどこで落ちるか、鹿がいつまで生きるかと問うたら、そこには予め定められた値というものがない。
無数の、時間的・空間的ノイズと向き合ううちに、結果はどこまでも多様化していく。水の流れが決して同じ紋様を描かないのと同じように、同じ草を同じように踏む鹿は、この世に一頭としていない。
沢から持ち帰ったツノを眺めながら、内省や信仰とは異なる意識のあり方を考える。
ひとまずそれを、生態の実存、あるいは生態学的実存とでも呼んでみる。
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ブロック、ノート、そして窓辺
http://nizo.exblog.jp/30595267/
2019-05-15T04:45:00+09:00
2022-12-30T11:44:16+09:00
2019-05-15T04:45:12+09:00
akiyoshi0511
未分類
余白のある空間で、たとえ短時間でも腰を据えて考え、手を動かして、組み上げたものを批評的に眺める。そして、それを日々反復すること。
実のところ、この原点は幼い頃のブロック遊びにある。
在京の頃、つまり20代を通して、僕は散歩と喫茶店通いに明け暮れ、ノートの紙上で同じようなことを毎日2時間以上はやっていた。
それは映画になったり、ならなかったりしたものだ。心地よい片思いをくれた先人たち。ベンヤミンやボードリヤールの断章を映画に「翻案」していた懐かしい時間はもう戻らないだろう。
昔も今も、組み上げたテキストと身辺の素材を交えて鑑賞に能うものを構成し、無名のbricoleurとして生きている。「身辺の素材」は、たまたま目に止まった木片のこともあれば、川崎のコンビナート群の夜景ということもあり得る。それは多分、その時どきで置かれた自身のプレゼンスの違いでしかない。
眼の前の光と環境を読み解き、点を掴み、線を引き、その流れを辿る。そして、心身に以前とは異なる視覚の論理が宿り始めていることを確認する。次はこの反復の中で、全ての事物に介在するパタン(異なるものの間での共振)が炙り出しのように現れるのを待つ。
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作品掲載
http://nizo.exblog.jp/30412787/
2019-02-13T17:33:00+09:00
2023-04-03T01:18:48+09:00
2019-02-13T17:33:28+09:00
akiyoshi0511
information
AIRDOの機内誌2月号を開いてみると、確かに自作が掲載されていました。
この機内誌は、エア・ドゥおよびANAとのコードシェア便の機内や、空港カウンターで手に入れることができます。
どこにも属さず、特定界隈と連むでもなく、近年は特に淡々と東京と札幌を行き来しながら仕事をして..そんな生活の中で毎月のようにエアドゥに乗ってきたので、今回の機内誌への近作掲載は、なんだか移動の労力を報われた気もします。
このシリーズは、写真界隈の権威ある方々にはすこぶる評判が悪く、自分よりも若い世代には比較的受け容れられているものです。作品は結果が全てと言うは易しですが、その「結果」とは果たして誰が決めるものなのか。風評に左右されずに、これからも淡々とやっていきたいと思います。
この現実という広大なフィールドで、あなたやわたしはどんな情報を受け取り、自らの次のアクションを紡ぐのか。
たった一人で、裸身でその場所に立っているという、フラットで無防備なところから全てがはじまります。
そこからどんな一歩を踏み出すか、判断するのも、結果を受け止めるのもあなたやわたし自身です。
この数年は映像仕事にかかりきりで作家活動の方は休業していましたが、その狭間で国内外の作家のインスタレーションなどをリサーチしつつ、自分自身も作品制作の思考回路を根底から組み直していました。
昨年は、ほぼ非公開の形で試作での個展を試してみて、ご招待した方々との対話で生まれる今後への手がかりや、少し遠ざかっていたアート界隈の知人とのコミュニケーションの楽しさも思い出すことができました。
少しずつ眠りから醒め、少しずつジャンルレスな活動に戻り、そしてこれから少しずつ、仕事と作品の両建てに戻ります。
10代の頃のコンピュータミュージックに始まり(Warpにデモテープを送るくらいには本気だった)、20年かけてほぼオールジャンルを渡り歩いてきましたが、これからやっと自分にとっての「Freischwimmer」が始まる気が。
これまでは過去の異ジャンルの成果は意図的に切り捨ててきましたが、分断してきた時間を一本化してもいい時期。言い換えれば、もうそろそろ作家としては仕上げの時であり、終わりの始まりなのだと。
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2019
http://nizo.exblog.jp/30379037/
2019-01-24T13:17:00+09:00
2019-05-15T04:49:52+09:00
2019-01-24T13:17:21+09:00
akiyoshi0511
information
あけましておめでとうございます。弊社メンバーは各自年末年始も稼働していましたが、正式には本日7日から業務開始。初日からいきなりロケなので、今年は早い時間に年賀状をアップすることになりました。 昨年はこれまでの体制を全面的に見直し、レギュラースタッフを含めたメンバー各人に現場の責任を委ねることで、コンテンツをテンポよく仕上げる仕組みに移行してまいりました。
動画というメディアのあり方が大きく変化し、普及も加速した2018年、弊社の制作も時流に合わせたスタイルに変化したと言えるかもしれません。
一方では、チームで時間をかけて作り込む案件があったり、まるでロードムービーのように海外ロケに出かける機会をいただいたり、制作期間は一瞬でもクリティカルな取り組みもありつつ…
例年以上に充実した一年だったように思います。
これから年度末にかけて、まだまだ重要なプロジェクトが並走しますので、気を引き締めて取り組んでいきたいと思います。
それでは、本年もよろしくお願い申し上げます。
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2018
http://nizo.exblog.jp/29209412/
2018-01-11T00:36:00+09:00
2019-05-15T04:54:20+09:00
2018-01-11T00:36:14+09:00
akiyoshi0511
information
あけましておめでとうございます。
昨年も様々な皆様に支えられて、スタッフ及びクリエイターメンバー一同、充実した一年を過ごさせていただきました。
2018年は年初から道東でのロケ&ロケハンを行っておりましたが、これから2月上旬にかけて、道内及び関東での撮影ラッシュに入ります。クライアント様は企業様から国立大学、省庁関連など多岐に渡り、徐々に業務のスケールも大きくなっているのを感じます。
また、sprawl Inc.では昨年末から制作チームの再編を行い、これまでのプロセスの課題の洗い出しを行うとともに、新体制でのワークフローの醸成を進めております。フレッシュなメンバーと共に、より一層、作品のクオリティのためにベストを尽くしてまいります。
現在、新たなチームにて、コマーシャル案件を含めた複数のショートフィルムコンテンツの制作を進めています。暖かくなる頃には作品をお披露目できると思いますので、どうぞご期待ください。
それでは、本年もどうぞ宜しくお願い致します。
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2017年の終わりに
http://nizo.exblog.jp/29066361/
2017-12-31T13:53:00+09:00
2022-12-29T01:08:56+09:00
2017-12-31T13:53:21+09:00
akiyoshi0511
monologue
二十歳になるかならないかの頃に毎日のように聴いていたBeckから、軽くタイムスリップするかのように20年振りのBeck、音楽はほとんど別物だけれど、そこには明らかに自分が辿ったのと同種の時間のヴァイブレーションの変遷を感じる。つまり、年齢を重ねながら世界の趨勢を見つめてきた帰結として、このナチュラルな音に至っているという勝手な思い入れに答えてくれるものなのだ。いちリスナーとしての感想。
30日の夜、森岡書店の店主が書いた「荒野の古本屋」がおもしろくて一晩で読んで、ある時代の懐かしさにも触発されて、少しずつ自分自身の言葉を奪還して‥いや、取り戻していこうと心を決める。全てが地続きではなくとも、何か一本の線でつながっている、という閃きは大切だと思う。
この国の航路は確定し、オリンピックという「聖戦」も近づき、自分はそんなものごととは無関係に、そろそろ退っ引きならない40歳を迎える。SNSの時代には付いて行くのが精一杯で個人の発言の重さを測りかねており、もはやブログで国策批判すらできないけれど、実際のところ、その種の批判を含めた包括的な正義や悪にはもうほとんど興味がない。政治に関心がないわけではないし投票もするけれど、それは一人の社会人としての良識の範疇での意思表示だと割り切っている。
今年亡くなった塩見孝也氏が最後まで貫いたものに、僕はもう関心すらないのだ。故人への個人的なリスペクトと、その思想への距離は別のレイヤーにある。人は変化しながら戦うべきで、凝固した意思を繰り返し社会にぶつけることでは活路が見出せないのではないか。己の中のか細い一本の糸を信じながら、囁くこと、囀ること、風のように振る舞うこと…。僕はそういう均衡を大事にしながら人生の後半を迎えたいと思っている。
一昨日、2017年の最後の撮影で、洞爺のガラス作家さんの仕事を撮らせていただいた。10年前、北海道に来たばかりの頃に作品を知ったその人とは、5年前にある仕事で間接的な関わりが生じて、10年目の今年になって初めて直接仕事をしている姿を撮ることができた。10年前の僕の目には、北海道というフィールドも、その人の仕事も憧れの世界に見えたものだった。
次に接点が生じるのは何年先だろう。あるいはもうないのかもしれないが、その人の仕事を撮るという本質的な対峙のところまで経験できて、今年は、最後の最後に風通しの良い場所に立たせてもらった気がする。
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大樹町撮影2日目
http://nizo.exblog.jp/28854209/
2017-12-12T06:53:00+09:00
2019-02-13T17:37:17+09:00
2017-12-12T06:53:40+09:00
akiyoshi0511
dialogue
夕方に宿舎に入り、9時間ほど泥のように眠りました。
大樹町は都合、今年3度目ですが、今回は夏とは違う案件。詳細は書けませんが、夏のも今のも重大ミッションです。そして、この町に滞在するときは必ず泊まりたいのがメムメドウズ。
実験住宅というコンセプトハウスが牧場内に点在し、隈研吾氏がリノベーションした厩舎に宿泊できます。
最高の環境ですっきり目覚めて、バスタブに湯を張り、ふと思い立ってBGMはABBAのDancing Queenから始めてみる2日目(たぶん屋外はマイナス5度以下)。はじめて下北沢を散歩した日、何かのショップでこの曲が流れてきて、たまたますぐ側に当時好きだった女性シンガーがいて、ちょっとした感動を覚えたのはもう20年前の夏です。当時の生業は所謂VJでした。
多摩川べりで過ごした20代はあっという間で、30代の10年を東京と札幌を出稼ぎのように楽しく往復し続けているうちに、世間にはいつしか二拠点生活などという呼称が生まれて、自分もそういうスタイルとして理解されるようになりました(数年前までは、東京に住んでいないだけで不利はあったんです)。
巷に溢れるマイナー映像作家のひとりに過ぎないですが、見方を変えれば意外とよく生きたのかもしれない。なんとなくぶら下げ続けているこのブログも、そろそろ20年目が見えてきました。まだまだ、これからやりたいこともたくさんあり、進行形でいくつかの準備もしています。
この10年はSNSの時代と重なりブログは放置していましたが、徐々に原点(=馴染みあるネットとの関わり方)に回帰してみたくなった。
過去作品について書いたり、現状を書いてみたり、文体も曖昧なままですが、ブログを再開してみようと思います。
それにしても大樹町に来てから昨今ありえないほど体調が良い。
心を良い状態に保てるように環境をセットアップするのも、重要なことなんだと改めて思います。
では、また。
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【追想】 "annoski"(2010)の撮影メモから
http://nizo.exblog.jp/28834971/
2017-12-09T02:20:00+09:00
2017-12-12T06:58:00+09:00
2017-12-09T02:20:09+09:00
akiyoshi0511
old text
「トゥイェ・ピラ」(豊平川上流・藻南公園付近・"annoski"の起点)
雲間から時おり光が射す午後、市の中心部を流れるT川の上流を、M公園のあたりから下流に向かい歩いていた。
やがて下流へと続く視野の片隅に水煙が現れ、その場所を目指して下ってゆくと、忽然と、圧倒されるほどの大瀑布が現れる。
この一帯は札幌南部の市街地に位置するが、昔から「石山」と呼ばれ石の産地でもあり、都市河川としては想像し難い岩礁の地形に、滝や大淵が見られる。滝の落差は5メートルほど。流量は膨大で、淵の底は見えない。恐らく場所によっては水深5メートル以上はあるだろう。かつては「おいらん淵」とも呼ばれ、世を儚んだ花魁が身投げした場所でもあったのだと過去に何かの本で読んだことがある。確かに、飛び込めば(あるいは足を滑らせて落ちれば)ひとたまりもないような淵ではある。
この日はどちらかというと、20年ほど昔の記憶を頼りに、ほんの気晴らしのつもりでその場所を訪れたのだ。淵も滝も昔見たそのままだった。(ふと「20年」と書いてみて、そんな時間の段差が自分にも生じたのだと思うと、少し不思議な気がする)。
都心にこのような景観が見られる都市が、果たして国内において他にあるだろうかなどと考えつつ歩いていると、不意に、その瀑布の遥か向こうに一棟の大きなマンションが目に入り、流れや岩肌との強いコントラストに目を奪われた。
眼前には、まるで箱庭にアメリカ西部の光景を再現したかのような荒削りな景観が広がっている。春の午後の残照が、その岩盤を柔らかく、立体的に照らし出していた。西部開拓と北海道開拓をなぞらえて見ればそれもアイロニカルなものだが、その向こうに、まるで楼閣のように一棟の団地が佇んでいる。さらに下流側を見渡せば国道沿いに生協の看板や、密集した街区が見渡せた。想像を絶するというものではない、けれど奇妙な光景だった。
改めてカメラを携え構図を考えてゆく。丁度滝の下流側からそのマンションを見やると、まるで滝上にマンションが浮いているかのように見えるポジションを見つけた。これは確かに、想像力の範疇を越えた景観に思えた。
想定している意味から、何かが「はみ出て」いるのだ。
それで、この場所でひとつの仕事が成立すると確信を持つ。
季節、光、天候、あるいはそれ以外の偶発的な何か。諸条件を鑑みれば、すぐにこの撮影を完了することはできそうにない。また、然るべき時節を待てば良いというものでもなく、折りをみて何度か来ることになるだろう。撮るなら早朝が良いかもしれない。
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http://nizo.exblog.jp/25114887/
2016-04-08T02:32:00+09:00
2016-12-11T08:40:11+09:00
2016-04-08T02:31:43+09:00
akiyoshi0511
未分類
それにしても、オホーツク・北方起源説関連の試みに着手するたび、新潟の友人をよく思い出す。彼のくれた素晴らしいヒントのお陰で僕は本当に死にかけている。おそらく触れてはならないものに触れているのだろう。党派性のないオルタナティブ、ニーズのないカウンター。無名のまま消えていった、しかし本当は誰よりもまともで慧眼の持ち主でもあった作家たちの住まう煉獄が眼下に見える、あるいは既に自分もそこに立ち入っている。
…
上記とは別件で、札幌市中心部の地下通路にある「500m美術館」というところで作品を展示しています。昨年、北海道立近代美術館の企画展で比較的大型のプリントを製作した「197X」というタイトルのシリーズ。期せずしてこのシリーズが撮影された場所での展示という意味でも面白い試みになったと思います。
http://500m.jp/exhibition/3744.html
※8日現在、企画展主催者の作成した展示キャプションに誤りがあるようです。作品タイトルが「brochen / Okhotsk」という私の別の作品群のタイトルになっていますが、正しくは「197X」となります。ご了承ください。
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