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余白のある空間で、たとえ短時間でも腰を据えて考え、手を動かして、組み上げたものを批評的に眺める。そして、それを日々反復すること。
実のところ、この原点は幼い頃のブロック遊びにある。

在京の頃、つまり20代を通して、僕は散歩と喫茶店通いに明け暮れ、ノートの紙上で同じようなことを毎日2時間以上はやっていた。それは映画になったり、ならなかったりしたものだ。心地よい片思いをくれた先人たち。ベンヤミンやボードリヤールの断章を映画に「翻案」していた懐かしい時間はもう戻らないだろう。

昔も今も、組み上げたテキストと身辺の素材を交えて鑑賞に能うものを組み上げ、無名のbricoleurとして生きている。
「身辺の素材」は、たまたま目に止まった木片のこともあれば、川崎のコンビナート群の夜景ということもあり得る。それはロケーションやスケールの差異でしかない。

眼の前の光と環境を読み解き、点を掴み、線を引き、その流れを辿る。
そして、心身に以前とは異なる視覚の論理が宿り始めていることを確認する。
次はこの反復の中で、全ての事物に介在するパタン(異なるものの間での共振)が炙り出しのように現れるのを待つ。


# by akiyoshi0511 | 2019-05-15 04:45

作品掲載

厳冬期の根室ロケ前半戦を終え、東京に移動しています。
AIRDOの機内誌2月号を開いてみると、確かに自作が掲載されていました。
この機内誌は、エア・ドゥおよびANAとのコードシェア便の機内や、空港カウンターで手に入れることができます。
 
行く先々で、北海道の人なの?東京の人なの?と言われ続けて10年。
(どちらと言われても、特に悪い気はしないんですが。)
 
要は、どこにも属さず、特定界隈と連むでもなく、近年は特に淡々とやってきて…。
そんな生活の中で、毎月のようにエアドゥに乗ってきたので、今回の機内誌への近作掲載は、なんだか報われた気が。
このシリーズは、写真界隈の権威ある方々にはすこぶる評判が悪く、自分よりも若い世代には比較的受け容れられているものです。
作品は結果が全て…と言うは易しですが、その「結果」とは果たして誰が決めるものなのか。
風評に左右されずに、これからも淡々とやっていきたいと思います。

この現実という広大なフィールドで、あなたやわたしはどんな情報を受け取り、自らの次のアクションを紡ぐのか。
たった一人で、裸身でその場所に立っているという、フラットで無防備なところから全てがはじまります。
そこからどんな一歩を踏み出すか、判断するのも、結果を受け止めるのもあなたやわたし自身です。
 
正直この数年は、sprawlでの映像仕事にかかりきりで、作家活動の方が停滞していましたが、その狭間で国内外の作家のインスタレーションなどをリサーチしつつ、自分自身も作品制作の論理を根底から見直していました。
昨年は、ほぼ非公開の形での個展を試してみて、ご招待した方々との対話で生まれる今後への手がかりや、少し遠ざかっていたアート界隈の知人とのコミュニケーションの楽しさも思い出すことができました。

今年からは少しずつジャンルレスな活動に戻り、仕事でも、作品の方でも、好きなように動きます。
10代の頃のコンピュータミュージックに始まり(Warpにデモテープを送るくらいには本気だったんです)、20年かけてほぼオールジャンルを渡り歩いてきましたが、これからやっと、自分にとっての「Freischwimmer」が始まる気がします。
これまでは過去の異ジャンルの成果は、意図的に切り捨ててきましたが、すべてを一本化してもいい時節が来たと思います。

私自身が諸ジャンルで修行や習作を一巡している間に、いつの間にか世の中の潮流も一巡したようで…。

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# by akiyoshi0511 | 2019-02-13 17:33 | information

2019

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あけましておめでとうございます。
弊社メンバーは各自年末年始も稼働していましたが、正式には本日7日から業務開始。初日からいきなりロケなので、今年は早い時間に年賀状をアップすることになりました。
 
昨年はこれまでの体制を全面的に見直し、レギュラースタッフを含めたメンバー各人に現場の責任を委ねることで、コンテンツをテンポよく仕上げる仕組みに移行してまいりました。
動画というメディアのあり方が大きく変化し、普及も加速した2018年、弊社の制作も時流に合わせたスタイルに変化したと言えるかもしれません。
 
一方では、チームで時間をかけて作り込む案件があったり、まるでロードムービーのように海外ロケに出かける機会をいただいたり、制作期間は一瞬でもクリティカルな取り組みもありつつ…
例年以上に充実した一年だったように思います。
 
これから年度末にかけて、まだまだ重要なプロジェクトが並走しますので、気を引き締めて取り組んでいきたいと思います。
それでは、本年もよろしくお願い申し上げます。




# by akiyoshi0511 | 2019-01-24 13:17 | information

2018

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あけましておめでとうございます。

昨年も様々な皆様に支えられて、スタッフ及びクリエイターメンバー一同、充実した一年を過ごさせていただきました。
2018年は年初から道東でのロケ&ロケハンを行っておりましたが、これから2月上旬にかけて、道内及び関東での撮影ラッシュに入ります。クライアント様は企業様から国立大学、省庁関連など多岐に渡り、徐々に業務のスケールも大きくなっているのを感じます。

また、sprawl Inc.では昨年末から制作チームの再編を行い、これまでのプロセスの課題の洗い出しを行うとともに、新体制でのワークフローの醸成を進めております。フレッシュなメンバーと共に、より一層、作品のクオリティのためにベストを尽くしてまいります。
現在、新たなチームにて、コマーシャル案件を含めた複数のショートフィルムコンテンツの制作を進めています。暖かくなる頃には作品をお披露目できると思いますので、どうぞご期待ください。

それでは、本年もどうぞ宜しくお願い致します。



# by akiyoshi0511 | 2018-01-11 00:36 | information

2017年の終わりに

大樹町滞在中に知人から教えてもらった、Beckの "Morning Phase" を札幌に戻ってからもほとんど毎朝聴いている。
二十歳になるかならないかの頃に毎日のように聴いていたBackから、軽くタイムスリップするかのように20年振りのBeck、音楽はほとんど別物だけれど、そこには明らかに自分が辿ったのと同種の時間のヴァイブレーションの変遷を感じる。つまり、年齢を重ねながら世界の趨勢を見つめてきた帰結として、このナチュラルな音に至っているという勝手な思い入れに答えてくれるものなのだ。いちリスナーとしての感想。

30日の夜、森岡書店の店主が書いた「荒野の古本屋」がおもしろくて一晩で読んで、ある時代の懐かしさにも触発されて、少しずつ自分自身の言葉を奪還して‥いや、取り戻していこうと心を決める。全てが地続きではなくとも、何か一本の線でつながっている、という閃きは大切だと思う。
この国の航路は確定し、オリンピックという「聖戦」も近づき、自分はそんなものごととは無関係に、そろそろ退っ引きならない40歳を迎える。SNSの時代には付いて行くのが精一杯で個人の発言の重さを測りかねており、もはやブログで国策批判すらできないけれど、実際のところ、その種の批判を含めた包括的な正義や悪にはもうほとんど興味がない。政治に関心がないわけではないし投票もするけれど、それは一人の社会人としての良識の範疇での意思表示だと割り切っている。
今年亡くなった塩見孝也氏が最後まで貫いたものに、僕はもう関心すらないのだ。故人への個人的なリスペクトと、その思想への距離は別のレイヤーにある。人は変化しながら戦うべきで、凝固した意思を繰り返し社会にぶつけることでは活路が見出せないのではないか。己の中のか細い一本の糸を信じながら、囁くこと、囀ること、風のように振る舞うこと…。僕はそういう均衡を大事にしながら人生の後半を迎えたいと思っている。

一昨日、2017年の最後の撮影で、洞爺のガラス作家さんの仕事を撮らせていただいた。10年前、北海道に来たばかりの頃に作品を知ったその人とは、5年前にある仕事で間接的な関わりが生じて、10年目の今年になって初めて直接仕事をしている姿を撮ることができた。10年前の僕の目には、北海道というフィールドも、その人の仕事も憧れの彼岸に見えたものだった。
次に接点が生じるのは何年先だろう。あるいはもうないのかもしれないが、その人の仕事を撮るという本質的な対峙のところまで経験できて、今年は、最後の最後に風通しの良い場所に立たせてもらった気がする。

# by akiyoshi0511 | 2017-12-31 13:53 | monologue

大樹町撮影2日目

とある案件で昨日から大樹町に来ています。初日は徹夜編集からの現場入りだったので、カメラを回すことで精一杯(意外と元気だった)。
夕方に宿舎に入り、9時間ほど泥のように眠りました。

大樹町は都合、今年3度目ですが、今回は夏とは違う案件。詳細は書けませんが、夏のも今のも重大ミッションです。そして、この町に滞在するときは必ず泊まりたいのがメムメドウズ。
実験住宅というコンセプトハウスが牧場内に点在し、隈研吾氏がリノベーションした厩舎に宿泊できます。

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最高の環境ですっきり目覚めて、バスタブに湯を張り、ふと思い立ってBGMはABBAのDancing Queenから始めてみる2日目(たぶん屋外はマイナス5度以下)。
はじめて下北沢を散歩した日、何かのショップでこの曲が流れてきて、たまたますぐ側に当時好きだった女性シンガーがいて、ちょっとした感動を覚えたのはもう20年前の夏です。当時の生業は所謂VJでした。

多摩川べりで過ごした20代はあっという間で、30代の10年を東京と札幌を出稼ぎのように楽しく往復し続けているうちに、世間にはいつしか二拠点生活などという呼称が生まれて、自分もそういうスタイルとして理解されるようになりました(数年前までは、東京に住んでいないだけで不利はあったんです)。
巷に溢れるマイナー映像作家のひとりに過ぎないですが、見方を変えれば意外とよく生きたのかもしれない。なんとなくぶら下げ続けているこのブログも、そろそろ20年目が見えてきました。まだまだ、これからやりたいこともたくさんあり、進行形でいくつかの準備もしています。
この10年はSNSの時代と重なりブログは放置していましたが、徐々に原点(=馴染みあるネットとの関わり方)に回帰してみたくなった。
過去作品について書いたり、現状を書いてみたり、文体も曖昧なままですが、ブログを再開してみようと思います。

それにしても大樹町に来てから昨今ありえないほど体調が良い。
心を良い状態に保てるように環境をセットアップするのも、重要なことなんだと改めて思います。

では、また。


# by akiyoshi0511 | 2017-12-12 06:53 | dialogue

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「トゥイェ・ピラ」(豊平川上流・藻南公園付近・"annoski"の起点)

雲間から時おり光が射す午後、市の中心部を流れるT川の上流を、M公園のあたりから下流に向かい歩いていた。
やがて下流へと続く視野の片隅に水煙が現れ、その場所を目指して下ってゆくと、忽然と、圧倒されるほどの大瀑布が現れる。

この一帯は札幌南部の市街地に位置するが、昔から「石山」と呼ばれ石の産地でもあり、都市河川としては想像し難い岩礁の地形に、滝や大淵が見られる。滝の落差は5メートルほど。流量は膨大で、淵の底は見えない。恐らく場所によっては水深5メートル以上はあるだろう。かつては「おいらん淵」とも呼ばれ、世を儚んだ花魁が身投げした場所でもあったのだと過去に何かの本で読んだことがある。確かに、飛び込めば(あるいは足を滑らせて落ちれば)ひとたまりもないような淵ではある。

この日はどちらかというと、20年ほど昔の記憶を頼りに、ほんの気晴らしのつもりでその場所を訪れたのだ。淵も滝も昔見たそのままだった。(ふと「20年」と書いてみて、そんな時間の段差が自分にも生じたのだと思うと、少し不思議な気がする)。
都心にこのような景観が見られる都市が、果たして国内において他にあるだろうかなどと考えつつ歩いていると、不意に、その瀑布の遥か向こうに一棟の大きなマンションが目に入り、流れや岩肌との強いコントラストに目を奪われた。
眼前には、まるで箱庭にアメリカ西部の光景を再現したかのような荒削りな景観が広がっている。春の午後の残照が、その岩盤を柔らかく、立体的に照らし出していた。西部開拓と北海道開拓をなぞらえて見ればそれもアイロニカルなものだが、その向こうに、まるで楼閣のように一棟の団地が佇んでいる。さらに下流側を見渡せば国道沿いに生協の看板や、密集した街区が見渡せた。想像を絶するというものではない、けれど奇妙な光景だった。

改めてカメラを携え構図を考えてゆく。丁度滝の下流側からそのマンションを見やると、まるで滝上にマンションが浮いているかのように見えるポジションを見つけた。これは確かに、想像力の範疇を越えた景観に思えた。

想定している意味から、何かが「はみ出て」いるのだ。
それで、この場所でひとつの仕事が成立すると確信を持つ。

季節、光、天候、あるいはそれ以外の偶発的な何か。諸条件を鑑みれば、すぐにこの撮影を完了することはできそうにない。また、然るべき時節を待てば良いというものでもなく、折りをみて何度か来ることになるだろう。撮るなら早朝が良いかもしれない。

# by akiyoshi0511 | 2017-12-09 02:20 | old text

毎週の網走出張とほぼ同時進行で、毎週の東京出張。諸々の命運をかけた極東へのドライブの行き先は少々不透明。映画は、撮影と録音をなんとか終えて編集に着手したものの、作品の内容とは無関係に懸案事項が生じており、まるで「ことの次第」そのもの。全てが無事に解決したら3日間くらい何も考えずに自然の中でキャンプを張って過ごしたい。

それにしても、オホーツク・北方起源説関連の試みに着手するたび、新潟の友人をよく思い出す。彼のくれた素晴らしいヒントのお陰で僕は本当に死にかけている。おそらく触れてはならないものに触れているのだろう。党派性のないオルタナティブ、ニーズのないカウンター。無名のまま消えていった、しかし本当は誰よりもまともで慧眼の持ち主でもあった作家たちの住まう煉獄が眼下に見える、あるいは既に自分もそこに立ち入っている。


上記とは別件で、札幌市中心部の地下通路にある「500m美術館」というところで作品を展示しています。昨年、北海道立近代美術館の企画展で比較的大型のプリントを製作した「197X」というタイトルのシリーズ。期せずしてこのシリーズが撮影された場所での展示という意味でも面白い試みになったと思います。

※8日現在、企画展主催者の作成した展示キャプションに誤りがあるようです。作品タイトルが「brochen / Okhotsk」という私の別の作品群のタイトルになっていますが、正しくは「197X」となります。ご了承ください。



# by akiyoshi0511 | 2016-04-08 02:32

年末から動き始めていた案件で、映画をつくるというミッションがある。映画といっても劇場公開を目標とするべきものではないし、まして収益ベースのものではない。今のところこの仕事は(実質上のパイロットワークである一作目に限って)、とにかく海外映画祭などのアカデミックな展開を主目的に、その題材やテーマの部分でクライアントの意思に叶うものにする‥という、非常に珍しく幸運な形態をとっている。

正月のゆったりした道東訪問から一転、今度は映画制作のために連日網走や道北を駆け回り、ロケハンや出演交渉などの段取りを進めつつ、同時進行でシナリオの仕上げ作業。収益のない仕事になりつつあるのは承知しつつ、ここで自分たちがやっておくべきことはなんなのか、表層で、建前で成果をあげるのではなく、本当に強い結果とはどのようなものかを念頭に、自分とスタッフは全身をそこに投じて準備を進める。言うまでもなく通常の仕事よりも考えることが多い。題材が地方の歴史や人に関わるものでもあるので、現地で関係者の話を聞くプロセスも欠かせない(これは何よりも楽しい作業でもある)。兎にも角にも、映画制作を短い納期に向けて動かすとなると、日頃の広告映像とはまったく異なるワークフローが生じる。

ある側面においては、こんな毎日は10数年前には日常だった。当時は8ミリ映画や16ミリ映画で、なんら外部からの要請もなく、ただただ己の執心のみに突き動かされながら、日夜映画について語り、シナリオを何度も読み返して校正し、ロケハンを繰り返し、出演者を探し回ったりしていた。当時の制作集団は3人か5人くらいのグループで各々が交代で監督作を作るという流れで動いていた。長編が形になったのは最初の一人で、二人目は撮影のみ完了して未編集、三人目の自分は、長編の撮影半ばで諦めざるを得ない状況になった。
このブログは2005年から始まっていて、それはちょうど自分の長編制作に本腰を入れ始めた時期だと思う。当時の映画論や社会への視線が青臭すぎて読むに堪えないけれど、あの日々から10数年、ある意味ではシームレスに再び映画制作が動いている。端的に言えば、あの頃の続きがいまここにある。ブログを消さないでおいたのは、こうして再び映画に取り組む時も見据えていたのは間違いない。

映画は僕にとっては原点であり、同時に鬼門でもある。最初の短編のアナーバー入選や国内受賞がなければ続けていく自信は得ることができなかったし、その後に満を持して取り組んだ上記の長編映画の失敗がなければ、写真に本格的に取り組むこともなかったに違いない。
その原点なり鬼門がもう一度目の前に現れて、全力で戦いなさいと迫ってくる。臆せず飛び込み、やはり予想通りというかなんというか、軽く命にも関わるような状況も経験しながら制作は深まっていく。これが映画だったな…と思いながら、時おり冷や汗をかきながら物事を前へ前へと推し進めていく。迷っていたら間に合わないし、何かを決める度にそこで作品の明暗が分かれる。この極限のプロセスが、そして結果としての作品の質が今後の鍵になるだろうということは直感している。制作者の熱量は、必然的にその後の作品の価値を左右していくということを経験的に学んでいるからだ。故にこのやり方を信じて、敢えてこの極限状況に身を置いているのだろう。

制作スタッフの仕事には3年間の成長が反映されており、完璧とは言えないまでも丁寧かつ迅速に進む。東京からは信頼しているカメラマンが交通費だけで駆けつけてくれる。僕も谷底で冬眠していた頭をフル稼働して完璧な設計図を描くべく努力をしている。誰か一人でもこの状況を信じられなくなれば全員が倒れることは分かっているが、そんなことを危惧していては到底映画など生み出し得ないということを、やはり僕は経験的に知っている。


# by akiyoshi0511 | 2016-02-12 14:18 | monologue

真冬になってからもほとんど毎日フィールドに出ていた。ハイテクすぎてもはや自分の手足とは思えない小型カメラジンバルを手に雪深い谷に降りたり、自分にとっては重量級の4Kカメラを防水のリュックに詰めて、薄らと雪の積もった湿原を歩いたり。果ては都心の下水処理場の(昨今では水リサイクルプラザなどと呼ぶらしい)温排水が臭う水域で80センチあまりの「幻の魚」に出会ったり…。
仕事の合間のごく短い時間で、数日に一度は必ず水辺に立っていた。おかげでマイナス5度まではまったく気にならない、マイナス10度でも長時間行動可能な体の耐性だけはできた。

これは一応ロケハンないしはテストシュートなのか、思考を深めるためなのか、それとも逆に思考放棄なのか。全てが曖昧なのだけれども、この厳冬期に景勝地とも言えないような場所を、スノーシューまで購入してまで歩き続けているところが我ながらおかしいし、今まで多忙・過労・体調不良を合言葉に、所謂「まじめな話」しかしたがらなかった自分の心身の変化として、妙な可能性さえ感じる。ネットサーフィンの(死語だが)時間を水辺の散策に宛てただけの話なので、業務の効率は向上しているのは間違いない。何かに対して不真面目になったわけではなくて、真摯に谷に堕ちていると言い切れる。ある種の底に堕ちたものには希望しか見えない、ということだろうか。

上徳如谷という言葉をある人から聞いた。鹿が外敵から身を護りながら傷を癒すために谷間に隠れるという逸話が起源らしい。あるいは、(谷底から生態系を見つめ)新たな着想を得るために思考する、なんていう意味もあるそうだ。実際のところは、夏までの過労から胃痛が悪化して、休みをもらって川歩きを再開したことがそもそもの発端なので、圧倒的に前者の気分から始まったのだけど、それは結果的に何かを強く見定めることにつながったようだ。
活動そのものは仕事面・作家面共にとても充実していたが、同時に何も圧倒できなかった2014年後半から2015年前半の動きが、もっと根源的なアクションを起こせ、という命題を導き出したのかもしれない。

これは何かとの決別であり、同時に別の何かとの和解のようなもの。決別といっても拒否ではないし、和解と言っても手放しで「ただいま」という感じでもなく。とにかく何かが分かるまで掘れという命題にたどり着いただけ。思えば8年前、東京から北海道に舞い戻った年、僕は撮影もせずに湿原を歩き続けていた。同じ行動様式に戻って、同じ次元ではいられないということが、既に次の挑戦を暗示しているように思う。

現実的なところでは、曖昧な時間は既に終わり、今は複数の取り組みの段取りで道東に意識を向けている。来週も再来週も、海さえも白く氷結した場所や、近隣の山野で撮影を続けることになる。このために耐寒トレーニングもどきの時間を重ねたのか、寒さを意識しなくとも動けるようになったことでこれらのミッションが生まれたのかという、卵と鶏のような話。








# by akiyoshi0511 | 2016-01-29 18:29 | monologue

「ロケハンとしての遡行」を再開した。気温6度。一気に寒くなって雨の中の渓谷歩きは辛くなり、さらに本流の崖で二度目の滑落をし(大したものじゃないが)、急に現実に引き戻された気がした。これまでにも覚えがあるイニシエーション。
すっかり雨に打たれ、良い写真(映像)も撮れなかったので、気を取り直そうといつもの溜まりで尺足らずの虹鱒を三尾。風が強くてフライがポイントに届かないので、僅かに風が止んだ隙をついて投げる。30分で寒さに敗けて終了。
峠では雪が降り出してしまったが、まだ道内の実景撮影の仕事がいくつかあって、週の後半から来週が勝負になるだろう。

一年後に予定している引っ越し及び展示活動と、余暇の釣りがきっかけで、数年ぶりにこの水系に着目するようになった。まだ見ていない流域が多く、ダムの連なる本流はアメリカのトラウト・リバーの縮図のようでもある。パタゴニアがプロデュースしたダム破壊の映画をまだ観ていないが、きっと自分にとっては視覚的な快楽に満ちた作品なのだろう。
この下流にO淵という地元の景勝地(古い時代の自殺の名所でもある)があって、春にその夜景を撮ったのはもう何年前だろうか。そこからアイヌ語地名に関するシリーズが生まれた。冷たい早春の風に吹かれ止まらない涙を、絶えず擦りながら撮影していたことを思い出す。

帰宅後、ふと某大学のM氏のブログを思い出して閲覧。一切の言葉が消え、美しい写真だけが羅列されていた。哲学者がオンラインの言葉を棄てたか、棄てはしなくとも用いないということ。個人的な感情の遷移なのか、そういう時代になったということか。
# by akiyoshi0511 | 2015-10-14 12:24 | monologue

「197X」

近代美術館で展示しているシリーズ(「197X」)はデジタルで撮影している。デジタルイメージによる現実の模倣(あるいは擬態)、時間の可逆性に関しての省察…といったワードがそれを方向づけた。
美術館という場でアルミの裏打ちを施されてソリッドに光を放つ物体たちは、自分にとっては短期間で最大の結果を出した、想定以上の成果物と言えるかもしれない。

脆いインクジェットプリントに、アルミニウムによって物質的強度がもたらされる。作品を搬入していて、軽く、硬い写真の存在自体が自分にとっては新しい感触だった。粘土質のノスタルジーを転倒させ、透き通った氷のような硬度をもたらすプロセス。
言い換えればそれは、建築物に認められる多くの古傷や何かの痕跡は、ノスタルジーを引き出すために写し取られたものではないということの証左でもある。

フィルム撮影・銀塩プリント・木製のフレームなどは、この作品にとってはまったく不要なものだった。ただ合理的に、できるだけ素早く、できる限り硬質で怜悧な作品として、打ち立てる必要があったのだ。やはり、それはある種の擬態なのだと思う。「完全コピー」を趣味的に目指すのではなく、敢えて似て非なるものを迅速に生み出すこと…。

「197X」という擬態は、オリジナルに対してのリスペクトや反復ではなく、ある種の防御・攻撃を目的とする。

# by akiyoshi0511 | 2015-03-12 06:36 | monologue

YANASE GLOBAL MOTORS及びGeneral Motors Japan Limitedとのコラボレーション企画で、本日から札幌のGMショールームにて写真展を行っています。

「Okhotsk」シリーズから写真10点に加え、本プロジェクトのために新たに撮り下ろしたExtra edition2点、そしてキャデラックCTSのスペシャルムービーをショールームにて展示中です。このムービーは、札幌だけでなく全国各地の関連ショールームでも上映されているそうです。

作品のご観覧目的での入店も可能ですので、気軽にお越しください。会場マップはこちら。
http://www.yanase.co.jp/gm/store/sapporo/#AccessSection

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# by akiyoshi0511 | 2015-03-03 01:39 | dialogue

道立近代美術館で開催される「もうひとつの眺め(サイト) 北海道発:8人の写真と映像」展のオープンが、いよいよ一週間後となりました。

http://imaonline.jp/library/exhibitions/mouhitotsu_no_saito/

これは私にとって初の公立美術館での展示であると同時に、現代美術における「写真と映像」にフォーカスしたという意味では道内初の本格的な展示となります。今回は美術館側からのセレクションにより、「197X」という2010年に撮影したシリーズから大型プリント20点(新規撮影も一点含む)、そして本展のために新たに制作した映像作品を展示します。
「197X」は展示自体が初めてですので、機会をいただけたことに感謝しています。また、展示構成は昨年の個展から試みている、写真とビデオプロジェクションを並置することで作品のコンテクストを示す形式で、今回は映像にも力を入れています。

個人的には昨年8月から7件続いた企画展・滞在制作の総仕上げ。これでやっと2014年を終えたという実感があります。
2月7日(土)の15時から、30分間のアーティストトークが行われます。いつもそうなのですが本作は特に、作品に付随する自分の言論や会場で提示される文章も、全てが作品の一部だと思っています。
札幌の街が混み合う雪まつり時期ですが、ぜひお越しいただければ幸いです。

北川陽稔
http://www.akiyoshikitagawa.com/

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# by akiyoshi0511 | 2015-01-26 07:04 | dialogue

2014.12.31

今更ながらヴェンダースの「Palermo Shooting」を観た。全盛期のヴェンダースを知るものとしては全く期待していなかったのだけれど、ベッヒャー・スクール的な現代写真美術への憧憬と自己批判や、20世紀から現在までのビデオアートへのオマージュが随所に散りばめられていて、想像以上に楽しめた。ロードムービーの新たな境地とまでは言えないと思うが、ヴェンダースらしく、作り物と即興の境界で、あくまでラフに、かつ全力で戯れている構成は見ていて飽きなかった。

少なくともヴェンダース映画の最大の美点である、デジタルによる映像を疑いながらも、それを包含した映像の未来を真摯に見定めようとする姿勢には回帰できている(その論旨がクリティカルかどうかはともかく)。すでになし崩し的に状況が変わり果ててしまった時代にあって、映像というメディア、あるいは映像におけるメディウムのアウラや影響力を真摯に突き詰めてゆくことはほとんど時代遅れなのだが。写真のネガに関する劇中の「死神」の言及など、ここにもまだボードリヤールの亡霊が息づいていた。思うところが多く、年の暮れに見ておいて良かったと思う。

なぜボードリヤールの残した言説が既に無効なのか、それを今更ここで述べたてる必要はないと思うが、コンシューマ環境を含めたデジタルの解像力が肉眼レベル、あるいはそれ以上に達した現状にあって、写真・映像というものはCCDに依拠する光の蒐集行為に変化した。仮にフィルムの感光に根ざしていたとて、ほぼ全てのケースでデジタル処理・出力を伴う時代になっている以上、写真におけるメディウムはその統合された環境から見定めてゆくものであって、フィルム「のみ」が真の写真であるという思考は、そもそも写真というメディアを包括的に見ておらず、「作家主義(イメージの匿名性も含め)」の妨げとなる不都合な状況から目を逸らしていることにすぎないということになってしまう。いくら「世界よ反転せよ」と祈りながらシャッターを切ったところで、ネガフィルムは今や、ただのレトロスペクティブな触媒であることは否めないはずだ。コダックの崩壊はフィルムの時代が終わったのではなく、フィルムのもたらすある種の神話とレトリックが崩壊したことを意味している。例外的に言えば杉本博司のように、感光の科学的作用を作品のコンセプトとして引用している場合を除き(あるいは多重露光の再現不可能性なども辛うじてまだ有効であるかもしれず、現に自分はその範疇において今でもフィルムを使用している)、趣味趣向の領域と言われても致し方ない状況から目を逸らすことはできないだろう。

デジタルの情報不足が明らかだった10年前と今では、写真(や映像)のメディウムの取り扱いは上記のように本質的に変化している。そんな時代においても、ヴェンダースはいつもビデオやデジタルを「曖昧に」受け入れながら懐疑的な姿勢も継続するという、如何にもヴェンダースらしい態度を取る(「都市とモードのビデオノート」で、ビデオ・フッテージをフィルムカメラで撮影して見せたように)。
仮に同輩のヘルツォークなら「聖なる映画の時代は終わった」と断言した上で、堂々とデジタルシネマの可能性と向き合うだろう。現にそうして、誰よりも早く世界最古の洞窟壁画を3D映画に仕立てる。蛇足になるけれど、ロマン主義的に見えがちなヘルツォークの本質は、限りなく野蛮で怜悧なロマンの破壊にある。3Dとの向き合い方にもそれは率直に現れていた。相変わらず彼自身がフィツカラルドであり、アギーレだ。ピナ・バウシュを撮ったヴェンダースと、そういうところも好対照。
# by akiyoshi0511 | 2014-12-31 15:53 | dialogue

2013.12.8

tumblrでメモ程度に日々の移動中や仕事の空き時間に撮影した写真を上げている。ひとまずメモというか実験材料というか、自分でも把握しきれていないイメージの集積からはじめて、随時方向性を見直していく。

http://akiyoshi-kitagawa.tumblr.com/

デジタルで撮影された画像は撮影された「瞬間」からネットワーク/マトリクス上にあることと、フィルムを葬るに至った即時性と可逆性こそが、実は最大の可能性でもある。ある日の何時何分に歴史的な何かが起きても、それは事後的に容易に操作可能であるということ。全てが嘘で、かつ真実。
写真のことに限らず、恨み言はもういいので今はとにかくやれることを増やしていこう…と。

仕事以外でもデジタルカメラを手にしたことで、相対的に、夏から撮り続けているフィルムのシリーズがなぜフィルムでなくてはならないのか、より明確なってくる。プロセスは作品の一部であり、60年前の手巻きカメラを用いねばできないことが(自分にも)まだあるのは幸運なこと。

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# by akiyoshi0511 | 2013-12-09 14:52 | monologue

2013.11.16

4年ぶりにデジタル機材を刷新。今日はそのテストで海辺へ。するとたまたま、ウェルベックの「ある島の可能性」のラストシーンのような風景に遭遇。幸先良い。

殊更デジタルの場合、カメラと身体はできるだけ怜悧に切り離されてる方がいい。入力用センサーを所持してるだけであって、カメラを所持してるという意識がない。カメラマンではなく、全身の感覚で捉えたものをすぐさまデジタル画像に変換するスキャナマン的感覚。

デジタルメディアに包囲されたパノプチコン時代に対等に抗うためには、高精度のデジタルの目が必要。
あるいはボードリヤールの最期の悲痛を乗り越えていくための新しい身体感覚。そういうスピード感や情報量をひとつの回路として切り開きつつある(あるいは、閉ざしていたものを開こうとしている)。

最近は仕事と作品制作の境界よりも、プロジェクト毎のアプローチの違いで機材を使い分けるようになった。フィルムかデジタルかという二元論ではなく、フィルムにもいろいろあるし、デジタルにもいろいろある。必然的に機材は増えていく。古いものは60年前のものから、新しいものは昨日市販されたばかりのものまで。
# by akiyoshi0511 | 2013-11-16 03:59 | monologue

KAWABA NEW-NATURE PHOTO AWARD

10月20日に群馬県川場村にて公開プレゼンが行われたKAWABA NEW-NATURE PHOTO AWARD 2013にて、川場村賞を受賞させていただきました。
審査員の方々や、現地のアテンドを担当してくださいました関係者の皆様に心よりお礼申し上げます。

川場のアワードは単に受賞結果のみを求めるコンテストではなく、その後、地域と能動的に関わることができる可能性を秘めた新しい取り組みなのですが、それを審査の現場を訪れて改めて実感しました。

群馬奥地の鉱山地帯は20代半ばから通い始め、徐々に自分が歳を重ねていくことも痛感しながら、毎回そこで何が実現出来るか自分自身の今を問うているようなところがあります。今回は長いブランク後の訪問となりましたが、作品制作・アワード共に結果を残せて感無量です。
新たにご縁を頂いた川場村を含め、改めて一帯を今後も訪れることになりそうです。

http://k-naturephoto.info/
# by akiyoshi0511 | 2013-10-24 12:26 | dialogue

2013.10.15

今日の札幌はそろそろ初雪でも降るのではないかと思えるほどの寒さ。朝方、道内の山は軒並み真っ白になり、Facebookに続々と知人の画像がアップされていた。

昨日は自宅の引っ越しがあり、これで札幌の新居、そこから10分ほどの場所にある仕事場(これまでは寝食もそこでしていた)、そして東京のワンルームという3つの部屋を移動しながら日々を過ごすことになる。大したスケールでもないけれど、一所に止まっていると思考が停滞しがちな自分にとっては、気分を変えながら動けるし、札幌と異なる臨場感のある場に基本的にいつでも逗留できるのはとても都合がいい。
新居はまだ引っ越しが片付いていないので、先ほど昼食がてら戻って、少し部屋の整理をしていた。室内はタングステン光源なので(懐かしい裸電球を敢えて使っている)、ちょうど夕暮れ時間と重なっていたことで外の光が真っ青に見えて、久しぶりに「annoski」で写し取った光を思った。

・・・

その「annoski」というシリーズ作品が、群馬の川場村というところで今年から新たに開催される「KAWABA NEW-NATURE PHOTO AWARD」という写真賞にノミネートされた。明日の夜からは再び東京滞在、そして週末は現地入りという予定になっている。受賞まで漕ぎ着けられるかは未知数だが、この「NEW-NATURE」という定義には可能性を感じている。そして、せっかくこのような機会を頂けたことで数年ぶりに群馬へ赴くことができるので、前日入りして草津の奥地や、10年ほど前に撮影したもののきちんと作品化できていない某硫黄鉱山跡地で撮影をしようと思っている。

10年前の訪問は長篇映画が途中で破綻した直後で、なんとかそのシークエンスをスチールに置き換えて作品化できないものかと焦りながら撮影した。一応、人物を含めた40枚ほどのシリーズを組み上げたが、仕上げたいという意思ばかりが先行して、一枚一枚の写真と丁寧に向き合うことができなかったように思う。今回の撮影で、この10年の自分の変化が少しは実感出来るかもしれない。単独のシリーズにはならないと思うけれど、今年進めている最新作の一部に組み入れようと思っている。

・・・

薄暮の中、新居のソファに腰掛けてぼんやり部屋を眺めていると、まだ決定的なタイトル案が出ていない今年の新作(先日の東川のスライドショーでその一部を上映させていただいた、多重露光を用いた作品群)のシリーズタイトルになりそうな言葉が、ふと脳裏を過った。
すかさず携帯でメモを書いて、自分宛にメールを送る。新居は純粋に生活の場であり、休息の場だと思っているのでノートPCも基本的に持ち込まないし、持ち込んでもインターネットに接続しないようにしている。そういう気持ちの変化が却って新鮮なイメージや言葉を引き出してくれたのかもしれない。
# by akiyoshi0511 | 2013-10-15 17:51 | monologue

2013.10.7

全包囲的なデジタル化によって世界が不可逆性を失っていくことに対して、まだ違和感を拭いきれない。
逆にそれが僕の作家としての拠り所とも言える。
だから、(多重露光の)やり直しが効かず、偶然性に依らざるを得ないネガフィルムに敢えて拘る。Photoshopで合成の整合性を求める時の、繰り返しのトライ・アンド・エラーから得られる陶酔感も好きなのだが(それはまさに芸術における可逆性の象徴であり、ことの黎明期において革新的であり得たのだった)、今現在、取り組んでいるシリーズはそういう性質を求めていない。

偶然性にイリュージョンを求めることそのものも、世界の可逆化/透明化への抵抗なのかもしれない。仮に抵抗という言葉がもう意味をなさないのなら、それを敢えて引き蘢る行為と言っても差し支えない気がする。
世の引き蘢りたちが自己肯定のためにtwitterで垂れ流す言葉が世界を動かす時代なのだから、芸術が高次の言語であると言い張る必要もないはず。善かれ悪しかれ蔓延している、新しい相対的な見方を拒絶しようとするから疲れるのであって、自分もその地平に立って、「私は私」を宣言してしてしまえばその重力はひとまず無化できるんじゃないだろうか。

そんなことを考えながら、仕事の合間に60年前の中判カメラやリンホフを担いで出掛けていく。ブラッケージのような偏執狂的妄信がある訳ではなく(考えてみれば彼も立派な引き蘢りではないか)、メカス的な宿命を背負っている訳でもないけれど、とにかく刹那的で否定的で、そして時差のあるこの(ネガ)フィルムという媒体が僕はどうしようもなく好きなのだ。
# by akiyoshi0511 | 2013-10-08 01:24 | monologue