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2006.4.29

gallary更新。
http://www.akiyoshikitagawa.com/F2/gallery/index.html

4月はあたらしいスチール関係の仕事と数本の映像仕事で怒濤のように過ぎた。まさに月末の今日までまったく休みという休みはなく、今夜になってようやく一段落といった感じ。

仕事の合間を縫って、これからともに作品制作をするモデルと一緒に、神奈川のとある湖へ出かけたり、例のごとくの夜会を自宅兼作業場で催したり、公私ともに充実したひと月だったように思う。さすがに本を読むどころかページを開くことすらままならなかったけれども、そんな中でまた一冊、重要な本と出会った。

『ADIEU A X 』
言うまでもなく中平氏の(病後の)重要作品。これまで全集や個展目録で部分的に見てはいたものの今回、やっと再販された写真集を手に入れることができた。やっと、と言っても実は購買の機を心待ちにしていたと言う訳ではなく、仕事の合間に近所の本屋に立ち寄ったら棚の一番高いところに鎮座していたのをふと発見し、迷わず購入したという次第。

自分の、映像制作者としてのルーツを考えるとき、中平氏や西井一夫氏の存在は好きとか共感というレヴェルを越えた言葉で表しえないほどの影響がある。またその影響下において執心し続けた長編映画というものが未完に終わり、いまになって、仕事においても作者としても、半ば居直るようにして直に写真と向き合っている自分が、こうして中平氏の写真の在り方に依然共振しうるという事実が、ある種の重みを持つ。

鳥瞰的な視座を保持したままナマの現実に回帰し、いわば片足をあの世に突っ込んだまま現実のなかで手応えを求めてさまよっている。自分が思っているほどには、新たな現実を生きている訳ではないのかもしれない。なにも変わっていないとすれば、それが恐ろしくもあり、また、嬉しくもある。

ある種本能的な、生の讃歌に結びつくようなイメージが、今自分の中であらたな鍵になっている。これまで凝視しつづけた都市の像をそこに衝突させたい。作品集を早く組み上げて、自主出版でもなんでもいいから発表したいと思っている。予定を繰り上げて、夏までに一通りの撮影は終えてしまいたい。昨夜は仕事の合間に友人に川崎まで連れて行ってもらい、半年振りにレンズを工場群へ向け、50カットほど撮影をした。身構えていたものはすべて抜け落ちて、撮影に集中することができた。全体像を考えることはせず、ただただ、望遠レンズで点在する光のなかに浮かび上がるものを凝視し続けた。先日、都内の某所で撮影したものと併せて、やっとあらたな作業が動き出したような気がする。


by akiyoshi0511 | 2006-04-29 20:53

2006.4.13


gallary更新。
http://www.akiyoshikitagawa.com/F2/gallery/index.html

デジタルから久しぶりに35ミリ銀塩にフォーマットを戻すと、当然無意識に抑制が効いて撮影カット数が極端に減る。スナップショットにおいてもその他の撮影においてもそう。しかしデジタルでの撮影と比して最終的に残すカット数はほとんど変わらない。ということはつまり、純粋に撮影のリズムが変わるだけに過ぎないということなのかもしれない。そして例によって標準レンズ/縦構図というのが圧倒的にしっくり来る。依然として、撮影行為とモノの実体感というものを等質に考える試みの中にある。

フレームの内と外の、両者の体感の差異を埋めてゆく試み。つまりフレーム外の世界との関係性を見失わない写真こそが今は大切に思える。被写体が半ばフレームの外にあったり、なにかの陰に隠れている、という構図が多いが、見えないことで見えてくる、あるいは、見ようと促すことができる、という理由からそういう結果にいたる。肉眼そのものに近づける、のではなく、肉眼で見るときのプロセスに写真を近づけたいと思う。

最近、ぜひどうしても撮りたい、という人に巡り会った。そういうことを何も期待していなかったタイミングの出会いだった。それが直感に基づく遠謀深慮なのか、単なる軽佻浮薄なのかはこれから関係を築いてみないと分からない。まるで分からなくて、そしてすべてのバランスが常に微妙に変動するというところが、他者を被写体にすることの究極的な面白さであるということを、重要視し始めた。これまでは風景の延長で人物を導入していたことを思えば、これは大きな変化と言えそう。人物を扱うことのそれらしさが、これまで培った風景への姿勢と両立するときに、自分の写真たらしむ最低限度の条件がはじめて揃うのかもしれない。

他者との関係性を、その都度、少しでも創造的な、相互作用に基づくものとして捉えなおすこと。検証する前に、未知のものを未知のままにひとまず己の中に取り込むというあたらしい習慣。そうしていわば、日常からあらたなモンタージュを模索する。モンタージュというのは終局的には、主体的な現実認知の技法そのものである。他者との関係性を無視した世界に、正論というものは存在しないのである。己の観念の中だけで周到に、あるいは頑にパズルを組んだところで、それは戯れに過ぎない。そうしていたところで世界はますます酷くなってゆくし、私たちは信じられない速度で核心から遠いところへ追いやられてゆくのである。そのことに一向に気づかない、あるいは目を逸らし意に介さないほど、愚かなことはないだろう。

まず否定からはじめる、という、同時代から学んだ思考規範を放棄していると思う向きもあるかもしれないが、もしも己がこれまでの経験から、敢えて否定から入ることの意義と、その正しい行程をある程度理解しているのなら、この反転は転向ではない。要するに逆説的に、自分は自分の一貫性をもう一度問うているのであり、いわば否定的見解の現在的効力というものを、外部との摩擦ではなく対話の中で検証しているのである。より複雑な関係性の中で、己の側のコードも複雑化し、再び有効たらしめんとしている、ということ。

今なら迷わずシャッターをきれる、と思う瞬間は相変わらず少ない。数年の反芻のなかで根付いた考え方と、それに縋ることを放棄した不安定な(しかしおおらかでさえある)感情の動きが衝突を起こし、そうして自己の変容と戯れ得る一瞬が過ぎ去る前に、それを時間から摘出する判断を下す、というところ。
by akiyoshi0511 | 2006-04-13 00:43