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memo_5

アジェのなかで我われをわくわくさせるのは、アジェが空虚なことを避けたということではなく、見慣れぬ世界を我われに示したということである。それが我われがこれまで聴いたことのないリズムや協和音に満ちた世界、我われがまったく忘れていたり、おそらくはまったく知らなかったりする経験への、ほのめかしに満ちた世界だった。

ジョン・シャーカフスキー


卓抜の言葉。
そして、『空虚なこと』を盲目的に否定するための創作行為ほど虚しい営為はない。自分のこれまでの実作業がそれにあたるとは思わないけれど、同じイデオローグの周縁を逡巡する性格にはその傾向が含まれているのかもしれない。

しかしながら、『己の解体/再構築』の含意をぼくは少なからず理解している筈である。破綻したとはいえ、実践してきたのだから。

ああ、とにかく真っ直ぐに見て、完全な画面が生まれる瞬間に立ち会いたい。穴から吹き抜ける風、そういう閉ざされていない完全さ。
by akiyoshi0511 | 2006-06-29 01:48

memo_4

ベンヤミンを読んでいる。「ほんらいぼくらの未来にあるすべてのものが、過去のもののように思えてくる」(かわうそ)、「博物館的性格から脱却する学問だけが、錯覚に代えて現実を提示することができる」(文学史と文芸学)、というような、時に辛辣で、ユーモアと詩情に満ちた無駄のない章句。最近疲れで読書がままならず、中座に終えてしまう文庫本が多かったけれど、ベンヤミンの散文はどんなに疲れていても詩のように(むしろ詩よりも)しっくりと馴染んでくれる。これまで読んで来たあらゆる批評の源泉、そして批評でありながら肉体を持ち、たえずその身を晒し運動する生きた章句。ベンヤミンという人は、なにかが失われ行く時代に生まれ、自らも疎外の過程を生きた人物である。認識者であり、詩人である。その双方であったが故に、19世紀末という解体を身を以て体現せねばならなかったのかもしれない。この二律背反、自分を含め、存在論的共感から興味を覚えるの人が多いのも無理はないとは思う。

20世紀の終りに立ち会ったぼくたちはどんな「目醒め」を見せつけられたか。…ここから先が本来自分の言葉、自己撞着だと言われながら度々発して来た言葉であるが、それさえももう引っ込めてしまいたい、というのが最近の本音(それでもベンヤミンは読めるのだからまったく有り難い代物である)。酒を飲み続ける中でふと思ったことがある。もう、飲んでも話がものごとの核心にふれることはなくなった。「世界を透明にする言葉」はもう発することができない。自分自身が、培ったその最低限度の資格を放棄してしまったことを、認知しているからだ。

「何であれひとつは望みを叶えてくれる仙女は、誰にとっても存在する。しかし、自分がじっさい何を望んだのかを思い出せる人は、ほとんどいない」これもベンヤミンの寓瑜的な一文だが、いまの自分にはいみじくも言い得て妙ではある。
by akiyoshi0511 | 2006-06-28 11:37

memo_3

疲れた体をおして夜の国道を駆け抜け、洞察と厳正さの上にひとり、シャッターを切るべきなのだ。世界と他者と自然と…そのすべてに甘い憧憬と痛みと、深い畏怖を感じながら。言葉と、言葉に類する視覚表現を越える未踏の様式によって、自らという他人それ自体と、遠い無数の他者、即ち人間一般の精神になにかを喚起することを促すために。過去に向かい未来に向かい、表現者はその厳しさの一点に依って立つ。その孤高こそが自らの求めるところだと信じて、決してなし得ないと知りながら『奇跡の一葉』を求め繰り返し視線を世界に立ち向かわせること…。それがせめてもの、同時に至高の真実にあたう、おそらくはたったひとつの、『私』という人称において行うことが可能な営為だ。
by akiyoshi0511 | 2006-06-19 05:15

memo_2

 モノに即さず、心情に即さず。では何に即すのか?つまり写真に即すのであり、近い未来において確認する「写されたもの」の純然たる存在の強度=美、に即すのである。「写された」という過去形で表現されるものの純然たる存在の強度のために今シャッターをきること、これはまるで時間の逆転を孕んでいるように思える。いま能動的に写すのではない、目的のイメージに意図的に近づけるのでは断じてない、ただそれが「写された=ヴィジュアルに移された」ことにより生まれるなにかを、まるで預言の言葉のように感知して、それを真に発見する。
by akiyoshi0511 | 2006-06-18 16:24

memo_1

 濃密な時間の気配。時間の痕跡という異次元を孕んだ生の空間。例えば古いカフェ、廃墟や古びた公共施設やホテル、暴力的なまでにそれを感じさせる工場群。「遡行的」なる場所は少しずつ失われてゆくし、私たち自身もまた、それらの空間とシンクロニシティを感じる力を失ってゆく。首都に来て寄る辺なき者となり、一番心地よいと思ったことはそういう空間に接点を持ち、同時にその意義を知り得たこと。それ故に、東京と縁を切れずに来たのである。愛すべき時間や場所が、たしかに私にもある。
 そしてそれらの空間も、私たちの肉体そのものもそろそろ実効力を失ってゆく。成熟せねばならない、という焦りは政治の要請だけではなく身体のやむを得ぬ要請でもある。
 人生の野蛮さにおののく少女あるいは少年は、元来その安全な世界から出たくはないのだ、即ち時間や時代との濃密なつながりを感じられる遡行的な空間(母のスカートの襞のあいだ)は、湿度と黴臭いにおいに包まれた首都の片隅にも偏在する。見放され破壊されながら、残されたそれらの場所はまだ確かに共通の息をしている(いるかホテル)。道々で偶然それらの空間に出会うとき、私たちは安堵を感じ、確かな言葉を紡ぐことができる。一歩先へ、認識の段階へ行きたいのなら、全てを失うことを辞さない覚悟でなくてはならない。哀切をもって語り合っても仕方がない。再び、野営地への旅がはじまる。少女あるいは少年は意味のはじまりに立ち、満たされた部屋を出て、憂鬱な面持ちで殉教の道(地雷を踏むか飢餓で果てるその時まで)を辿る。世界への愛情を殺しえぬままに、認識という抑えられぬ異物を携え、孤独な測量の旅を生きる。
by akiyoshi0511 | 2006-06-13 02:03