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memo_7

なんらかの事情で自分が消えてゆこうと世界は何一つ変わるまい。しかしいま己の視線が捉えたもの…世界の側から立ち現れる一瞬のスタティックな歓喜…は、こうしてひとつひとつフィルムに記憶されていく。肉親でも友でも見知らぬ人でも、異星人でもいい(それは殆ど理想的なことなのかもしれない)、未来に誰かがそれを感じ取ってくれるなら、それだけで充分である。

写真や映像が誰かを幸福にする…もしもそういう甘い期待を持てるならば、それは僕自身の記憶としてではなく、匿名の視線として現前する、確たる論理性(の末に、それ自体を)を粉砕する歓喜であってほしいものだ。たとえば、宮沢賢治が深遠なる悲壮に支えられてあの「夜来る歓喜」を著したように。人の認識を越えた表現というものは、その人の論理の消失点そのものでもある。

地平線の向こうからやってくる星雲を視野に微かに捉えたとき、その人はもうほとんど死に近づいているのかもしれない。その人の存在は切り離された視線そのものに凝集され、己の物質的存在はどうでもいいものとなっているだろう。肉体から離脱をしてまで、己の肉体に興味を持つ必要はない。幽体離脱体験者の語る映像のほとんどが「自らの身体を顧みる」ものであるという報告は、それはまだ生きる意思に支えられたものであるということを暗に裏付ける。
おそらく、安らかに死にゆく者にとっては違う体験となった筈である。ただ世界に遍在する視線、ただ漂う気配、つまり偏在する視線そのものに変化し、世界の片隅の図像を垣間みることになるだろう、その体験は(意識も肉体も潰えるのだから体験ですらないのだが)、フラッシュバック(この安手な表現は表層の感情を煽るためのものでしかない)のようなものではなく、低空で漂う気球のような、浮遊する眼となる静かで永続的なものかもしれない。
by akiyoshi0511 | 2006-07-17 13:48

2006.7.14

いまいま街を車で流していて、街路という街路が一面満開のアカシアでみたされている、という夢を今朝方みたのを憶い出した。夢にも関わらずその芳香まで完璧に再現されていた。誰かと一緒にいるのだが、それが誰なのかは分からない。アカシアは5月の花木。夢の中で「こんなじきにあかしあがまんかいだなんてすばらしいね」とその誰かと語っていた。本当に、道々が白い房で覆われていた。ビルの隙間という隙間がすべてアカシア。

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ヘルツォークの新作劇映画が映画祭上映される。週末は群馬の鉱山へ撮影旅行のつもりだったが、取りやめてそちらを観に行った方がいいのではないか。遂に宇宙からの視線へ至ったヘルツォーク、それ以上のヘルツォーク(の正論)はおそらくないには違いない。いち視聴者としては、その映画が2001年宇宙の旅を粉砕するほどの労作たらんことを心底望むのである。己の力能を正しく見定めたものは、やはり然るべき領域まで至るのだろう。

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この世界のグリッドが見える(見よう)などというのはおそらく錯誤なのだ。やはりヘルツオークではなく群馬に行くべきなのだろう。いまヘルツォークを観てもおそらく無念を感じるだけだからだ。制作するものはただの点であるべきであり、強度と方向を保つベクトルであるべきであり、貧弱に区切られた平面であろうなどと思ってはらない。
by akiyoshi0511 | 2006-07-14 10:56

memo_6

排水完了。が、本当はそもそも、そのプロセスを態々踏む事で、己の内部の蟠り、あるいは吹きだまりを、一度きれいさっぱり掃除してしまいたかっただけなのではないか。どちらでも同じ事だが、いずれにしても人生の風通しは少しだけましになっただろう。

二つの取り組みは、まだ間に合う。プランBの一部には、故郷の風景も取り込むことになるかもしれない。そして迷い込むように記憶の生温い泥の中から現れつつあるのは、未来。それはどこまで僕に作用してくれるだろうか。おそらく単なる回帰や帰順にはなるまい。場合によってはなにかあたらしいこと、あるいは僕自身の、もっとも深いところに封印されたものと向き合うことになるかもしれない。15年余、苦悩と享楽とある種の欺瞞で彩られ疲れ果てた時間を、一条の光が照らし出す。あるいは一陣の風が、王家の墓に沈殿した時空を吹き抜けてゆく。いずれにしても、これから何かがが明るみにはなるだろう。
by akiyoshi0511 | 2006-07-01 20:20