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逡巡、あるいは上下移動

毎月東京から北海道に戻ると、シェル・ショックのように数日のあいだ無気力な状態が続く。再び2月初旬から東京。そして同月から、蒲田に作業場を持つ予定。

半年ぶりにベンダースの「東京画」をMacのデスクトップに流しながら、まるでそれが既に過去の視線であることを己自身に言い聞かせるように、sinarに180ミリの望遠気味の標準レンズ…ではなく90ミリの広角レンズを乗せて、自室の窓から隣家の壁を覗く。すると、壁の疵に太陽の光が当たり、ある種のコントラストが表出していた。光が去らぬうちに結局カメラバックから100ミリレンズを乗せた一眼レフを取り出し、撮影する…。



先日の下北沢で、たまたま同じ上映を観ていたかつての友は、沖縄のドキュメントに泣いたという。永遠に変わることなく誰か(の論理)と添寝できるなら、そうして涙することも叶うだろう。
現在の中平卓馬は空転などしていないし、あの時「劇場」にいた若者たちは少なくとも無知や無関心ではないだろう。あろうことかハンバーガーを食べながら映画を観ていても、彼らは十分深刻な部類の若者なのだ。しかし彼らを取り巻いている現実(それも反現実も取り込んでしまった現実)が、彼らを常に揺さぶり、純粋に考えることを阻害するのだ。それが例えばハンバーガーにすがりついたり、あの言説で涙したりという倒錯的な事態に彼らを貶める。



この強固な現実に立ち向かうには、己をある種の遊軍に仕立て上げるしかないというのが僕の結論だったが、それも結局のところ、「誤った動き」の果てに、辺境で更なる傷を負うだけである。(そう言えば、「まわり道」のヴィルヘルムの歳でさえ、自分はもう追い越してしまった…ふと年齢を認識するのは、こういう時だったりする)

「東京画」の画面の中ではヘルツォークが語っている。東京タワーの展望台で、都市を悲観するヘルツォークの姿は当時の情況でさえ少々あざといが、代わりに、今でもヘルツォークは十全に勇ましいのだった。ベンダースも、アメリカに最後の弛みきった映画を残して、昨年ドイツに戻って最初の映画を撮り上げたらしい(撮り始めた、だったか?)



羽田を発って以来、地下鉄の中でもホテルのラウンジでも自室のベッドの上でも、ボールペンを片手に「幻想の未来」ばかり読んでいる。おかげで毎晩妙な夢ばかり観て気分は冴えない。しかしそれらの夢も気分もフロイトの言説に触れているせいでは断じてなく、知性から遠ざかってゆく自己への焦りにすぎないだろう。
おそらく、この本に接続するかたちで吉本隆明の「共同幻想論」を読み返すことになるだろう。そして2年前に挫折した「ハイ・イメージ論」をなんとか読み解いて、ボードリヤールにまで戻ってくるだろう。一度ならず逃げ出せば、言説の恢復にも時間がかかる。

いつも、私的な悲しみと引き換えにしかこの軌道に戻ることはできないし、戻ったところで救済が得られる訳でもない。単純に、恋にも宗教にも耽溺することは叶わないから、いわば代償として写真や知性への耽溺(昇華ともいうが)を指向する。選択の余地はその程度しかないうえに、時として、いや概ねその耽溺さえままならないから、メランコリーに囚われたりもする。
それがつまり、とどの詰まりの30歳を目前にした自己の日常。



駄文を書いているうちに、「東京画」は終わりのところまで来てしまった。厚田春雄氏が画面の中で泣きながら小津安二郎について言う。

…彼は神様のような人でした…
by akiyoshi0511 | 2008-01-25 11:29 | monologue

documents

イメージフォーラムで「いのちの食べ方(Our Daily Foods)」を観た。宮崎淳氏の「Borderland」や「FRONTIER」をここで目を潤ませながら観てから、もう何年経つのか。
一巡して、また元の位置にいる。…違う。以前にはなかった視点を獲得した訳ではないが、一点透視ではない、並走する同時代の現実と向き合い、そして今ここにいるのだった。

「いのちの食べかた」はノンダイアローグで淡々と進行する映像作品。明らかにドキュメンタリーというよりはアートフィルムの文法であり、いつか観たジェームスベニング(だったか?)に近い即物的着眼。冒頭15分のシークエンスは洗練の極みであり、観る者を圧倒すると同時に我々の置かれた現実をまざまざと見せつけられる。食に限った現実ではなく、未来化した我々の「全的な現実そのもの」を、だ。完璧な、完膚なきまでに潔癖な死がそこにある。詳しくは後日仕事のレビュー記事で書く予定だが、即物的視線の正当性と、宿命的に含まれる危険性をやはり強く感じた。

これが現実だから、という言い口には半ば強制的な懐柔が含まれている。そしてこの作家はおそらく、やむを得ぬ懐柔の先にあるものを視ている。立ち位置は、わたしたちとほとんど同じだ。

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翌日は下北沢で「カメラになった男」を観た。今回はこれをどうしても観たかった。多くの資料から明らかになっている情報がほとんどではあるが、沖縄のシンポジウムでのやり取りなどは実際に映像で観るとそれなりに凄まじい。内容が、というよりは主催者や観客を巻き込んだ人間模様が凄まじいのである。内容はもはや語るべくもない。
そもそも我々の世代には語りようがない事物だけに、あなたの生きる現実に基づいて十全に考えて行動(撮影)しなさい、ということは痛いほど伝わってくる。これも老獪と呼ぶべきか。

少なくとも数年前に公開された同題材の映画よりは100倍価値がある。そちらの映画はいわば取り上げた当人と、そのファン層のための意義しかない映画だった。それでも、被写体となっている中平氏はその思惑よりも遥かに強かで逞しいと当時微かに感じたが、今回の正当なドキュメントを見て、それが見当違いではなかったことをあらためて認識した。

前述の「Our Daily Foods」を引き合いに出して語れば、同じ即物的視線、全的視野であっても立ち位置はいわば真逆である。その補足として言えば、前者が「食」のグローバリゼーションに対して単純に否定的な見地で本作を撮影したとは、どう考えても思えないのだ。仮にそうなら、こうした撮影も実現し得ないだろう。
即物的視座においては対象の絞り込みが大きな意味をもつ。中平氏の横浜と、選び撮られた事物(…否定を貫くため…)に比すれば、「Our Daily Foods」の選び取った対象(…肯定も含まれる…)が孕むものもまた、同次元において炙り出されてくる。

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羽田で飛行機を待っている間にフロイトの「幻想の未来/文化への不満」を少し高いと思いながらも買う。フロイトでこういう政治的に直接的な言説というのは、今までは読んだことがなかった。軽く読み始めたが「夢判断」よりも遥かに読み応えがある。包括的な最後期の著作だからというのもあるが、何よりもフロイトが精神分析論の体系を宗教/国家論や政治論、そして人間そのものへの啓蒙に結びつけるアクチュアリティに、やはり惹かれる。
by akiyoshi0511 | 2008-01-22 04:00 | monologue