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暫しデジタルと離別

ビューカメラ1台とフィールドカメラ1台、それにレンズ4本と備品を収納できるサイズの登山リュックを、石狩の釣り具屋で5000円で購入。安くて大容量、地味なカーキ色で、ナイロンではなく布製なのもいい。
来月から、これらを担いで近隣の山々を歩く。身辺環境からはじまり、北海道を逡巡し、おそらくやがて「北海道よりも北へ」赴くことになる。必然的に長い付き合いになるであろう機材たち。
差し当たり不必要なものは全て売却し、今のシリーズの撮影に必要な機材を充実させた。DSLRも手放し、手元の環境はブローニーと大判のみになり、何だかすっきりした。撮影仕事はしばらくフィルム限定で、映像仕事はレンタル機材でも対応できる。半分仕事・半分作品という微妙な位置づけではあるけれど、数年振りの自主制作の映像「森と水の庭ウトナイ」が完成したばかりでもあり、次の映像(映画)作品はそう焦るものでもないと思っている。

大判フィルムの情報量、そしてネガ(陰画)という「光を闇に、闇を光に反転させて記録する」という物理的なプロセスが、自分の写真にはどうやら欠く事のできない用件のようだ。写真の真実性を考える時、とかくレンズ工学的な部分(どの焦点距離でどのように向き合うかというような、経験論的姿勢)に囚われがちだが、レンズも所詮装置の一部であり、何ミリを選ぶかは写真機との戯れであり、レンズという補助装置ありきでの真実性への拘泥に過ぎない。言い換えれば、何ミリを使おうと(写真の本質的な真実性に関して言えば)同じこと。
写真の真実性を求める上で大切なものは寧ろ、記録する感光材料の物質性の方ではないか…と今は考えている。写真を自己の自然な視野に近づけることと、結果としての写真でモノの発する真実性を得ることは実は符合しないのだが、これを正確に知るためには、これまで通してきた(標準レンズ+ポジフィルムの)やり方もまた、不可欠だった。

今春、専門学校で写真の起源について教える時間があり、そこで「写真以前の世界」についていろいろと調べ、考えた。それは太古の人々がラスコーの壁画を描いた時代まで引き戻して、モノを視る、未来を夢想するということについて考えることだった。伝達(コミュニケーション)の欲望や、未知なる明日への想いが込められた画には、記録と想像が分化される以前の、「見ること」への渇望が凝縮されているような気がした。また、先日は北海道にある洞窟の刻画を目にした。そこには、数千年前のシャーマンが描いたという、翼の生えた人間像が描かれていた…。それらの検証の中で得たものは全てを写真のための言葉に置き換えることはできないが、できないからこそ、写真に影響し得るなにかがあるのではないか。

あるいは、ニエプスが、ダゲールが初めて写真を結像させた瞬間から生まれた、写真のメディアとしての特性について改めて見直すことも必要だった。そして、同時期に進めていた今のシリーズの製作で多くの試作を繰り返していたことが、現実的な意味での撮影の作法を根本的に見直す契機となった。

最新のシリーズの試作の課程では、同じ場所を何度か違う条件と方法で撮影していて、それらの中には別のコンセプトの組み写真になっていたり、単独の写真として仕上げたものもある。10月に予定しているフジフォトサロンの展示等で、それら傍流の作品も提示したいと思っている。
by akiyoshi0511 | 2010-06-29 05:52 | monologue

東京を掠める

一昨日の夕方、急遽羽田経由で静岡へ向かい、今まで乗っていた車と引き換えに、小さなワーゲンを受け取った。薄暮の闇の撮影のための車との出会いは、薄暮の時間帯。そして偶然ながら車体色も藍色。
その後、すぐに東京方面に移動を開始したが、ナビのない車なのですっかり道に迷ってしまい、横浜でUさんに会う時間がなくなってしまった。代わりに電話で少し話をしたが、やはり会って、もっと話したかった。

深夜0時に新丸子に到着。Mさんのスタジオを訪ねて、プリントを見せる。彼が反応した一枚が、この新しいシリーズを切り拓いた一枚だったので、そのプリントを手渡した。彼の紡ぐ音も、これまでより遥かに立体感を増していた。短時間の訪問だったが、内容の濃い話をした。自分の写真と彼の音楽で、また何か模索することになるだろう。
午前3時に新丸子を出発し、眠らずにアクアラインを抜けて水戸方面へ。結局、東京は行きの電車で蒲田を通過しただけで、帰途は多摩川まで来ていながら、東京側に立ち入ることはなかった。時間さえあれば会いたかった人が、川向こうにまだ何人かいる。次は一体いつ来ることができるのだろう。

水曜の午前中に大洗のフェリーターミナルまで移動。いつも、通過するだけで撮影をしたことはないが、茨城の海岸線の防風林や里山は印象に残る。もしもここで長く暮らしながら執念深く見続けてゆけば、例えば高く伸びた竹や、松林の陰に何かを見いだせるのかもしれない。ただ、自分は当分これら「内地の」光景と向き合うことはないだろう。生涯ないとは言い切れないが、もしかしたらないのかもしれない。

・・・

大部屋の客室で目覚め、浴室の洗面所で身繕いをして、甲板に出る。外気はほどよく引き締まり、海の上にいるにも関わらず空気は乾いているように感じる。ちょうど本州の低気圧を抜け、北国の気候へ立ち入るところのようだった。ガラム(…遂に煙草を替えた)を吸っていると日が射してきたので、光の当たる場所に立った。雲は高く、太陽も遠く感じる。本州から北海道への帰途の船の上で浴びる光は、ささやかな解放感を与えてくれる。
船旅ではいつも「トニオ・クレーゲル」のことを考える。トーマス・マンの人生と自分の人生を比較するなど馬鹿げているのは分かっている。それでも、ふと考えてしまう。

ごく最近になって、やっと、たったひとつの「技芸」を得た確信がある。それは皮肉にも、写真という装置を光の曲芸を捉えるために用いず、闇を炙り出すために用いる試みだった。

苫小牧港に着岸するまでずっと、ボードリヤールの「なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか」を読み返していた。この本は今年に入ってから、何度か精読している。思えば二十代の半ばに幾度も読み返した西井一夫の本は「なぜ、未だプロボークなのか」だった。
異なる次元で「なぜ、〜なのか」と問う二冊に、因縁を感じなくもない。

帰ってきて、「10ミニッツ・オールダー」のカウリスマキ監督の短篇を観る。東京に棲んでいても北海道に戻って以後も、カウリスマキ作品に流れる時間の心地よさは変わらない。
by akiyoshi0511 | 2010-06-25 02:01 | monologue

ウトナイの映画祭は無事完了しました。
開催にご協力いただいた団体や個人の皆様、映画祭にお越しいただいた皆様には、あらためて心より御礼を申上げます。

あの瞬間、ウトナイの「森と水の庭プロジェクト」の取り組みが初期の目的を達成し、同時にプロジェクトが終了したことを実感しました。
振り返れば、60余点から成る写真のシリーズの制作にはじまり、ドキュメンタリー映画の制作、そして地域の森の施設で映画祭を開催したりコミュニティカフェを開くなど、まさに盛り沢山のプロジェクトでした。

「森と水の庭プロジェクト」は、これにて事実上の活動終了となりますが、ウトナイの映画に関連する活動は、今後も継続する予定です。また、北海道の環境に関連する講演やワークショップも、今後も機会をいただければ積極的に行いたいと思っています。

先日は、札幌市環境プラザ(エルプラザ)の関連講座で、20名ほどのカメラを持った参加者の方とともに北大の森を歩きながら、都市の中の自然を撮影する企画のナビゲーターを務めさせていただきました。
北大の構内でいくつかポイントを定め、まずは全員で北大の森の植生に詳しい理科の先生の解説に耳を傾けます。
それから、思い思いにカメラを携えて撮影の時間。一カ所ごとの立ち寄る時間が限られていたので、少々慌ただしかった面もありますが、とても面白い企画だったと思います。

また、映画祭の運営と並行して新しい写真の制作も進めてきました。その最初のグループ(13枚)が先日完成し、続けて、7月は2つめのグループに取り組みます。この取り組みは現在予定しているだけでも8グループほどの写真群があり、今後も増えてゆくと思います。また、取り組みの性質上、一回の撮影で限られた枚数しか撮影できないため、少なくとも今後数年は継続することになります。
従って、個々のシリーズの展示と、数グループからなる展示を、それぞれ段階的に考えています。

上記のシリーズを札幌で発表し始めるのは、おそらく来年以降。それ以外に今年は、8月(「Unknown Northern City」@ギャラリー品品)、9月(「Two Sanctuaries」@ギャラリー品品)、10月(写真家NPO関連のグループ展@フジフォトサロン)と、札幌での展示予定が続いています。8月・9月に展示するものは2008年撮影のシリーズで、フジフォトサロンへの出展は今年の新作になります。

詳細は、また追ってご案内させていただきます。
by akiyoshi0511 | 2010-06-13 22:46 | dialogue