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歯を3本抜く

午前10時に歯医者で抜歯。
緊張とは裏腹に呆気なく終わったものの、それでも歯医者が苦手で5年ほど虫歯を放置してきた自分にとっては大変な出来事だった。
3本抜いて、うち2本は親知らずだったので、実質失った永久歯は1本。抜いたのは3本なのに、喪失感は1本というのも妙な感じがする。
いずれにしても奥歯を一気に3本も抜いたのだから、三半規管にもなにか影響があるに違いない…と、医学的な根拠もなしに、何となく思っている。

痛み止めも順調に効いていて、午後の仕事はいつもの5倍くらいのペースで進んだ。
天気が安定したので夕方はMR山の撮影。いつものように、夜陰のはじまりの1枚のみ。

そのMR山の麓にある北海道でもっとも大きな神社と、今日初めて向き合った。
出雲の神のもとにこの島を「北海道」と名付け、日本人が所有することを明確に規定した場所。
あまりにも重い意味を担うこの場所は、陳腐な批判の眼差しなど軽々と撥ね除けてしまう。

それは入念に手入れされた空間の佇まいや、彫り込まれた「君が代」の文言の力によるものではなく、夕暮れ時にも途切れることなく参拝に訪れる人々の思いによるものかもしれない。そういう人々の思いを僕は理解できないが、かと言って反感を持つこともない。

北海道に生を受けることと、北海道の外のものを信仰することが微妙な具合で結びついている。信仰の根源を否定すれば己の生の由来も立ち消え、己の生を肯定すれば、信仰に加担することになってしまう。
個人の感情で向き合えるものではないし、かと言って、向き合えないから仕方がないという風に片付けてしまうこともできない問題。
世界中に同じような問題が溢れていて、他ならぬ自分自身もその種の矛盾を、望むと望まざるとに関わらず抱え込んで生まれてきたはずなのだが、あまりにもその認識がない。
「皆さんは、先住民の人々を虐げて北海道を手に入れたご先祖様のお陰で、今こうして生きていられるのです」という教育を受けたことも、もちろんない。
近代の歴史の時間の奥に、もっと多くの盛衰があるのもまた事実。縄文文化の時代にも、オホーツク人の時代にも、ヒト同士の争いは絶えることがなかっただろう。見つめるべきは寄せては返す波のような時間の流れであって、個々の民族同士の問題ではないのかもしれない。

ただ、近代化(西欧への同調)というものを倭人がこの場所に持ち込んだのは事実である。つまり私たちの祖先が、終わりへと向かう時間のスイッチを「ON」に換え、私たち自身もそれを加速させている。
その「加速」の象徴として、幾多の開発による自然環境の破壊や、泊の原子力発電所や、過剰な自衛隊の基地があり、しかもそれらは私たち自身の生活の維持とも密接に結びついている。つまり、何を言おうと、何をやろうと絶対に逃げられない仕組みがある。それはもう完全に個人の意思とは無関係なところにセットアップされており、あるいはひとつの国が自国の国民のために判断できる領域をも越えてしまっている。
時間と「システム」だけが、ただただオートマティックに、終わりへと向かって突き進んでゆく。

当初、この場所で仕上げる写真は1枚のみの予定だった。けれど予定を変えて、少し日数をかけて5枚から7枚ほど仕上げることにした。
神道に限らず一切の信心を今後も持つつもりはないが、この場に感心を持ち、しばし時間をかけて視線を手向けるのは必要なことなのかもしれない。
ここで生まれた者だからそうするのではなく、それだけの重みを持つ場所だから、少なくとも「アイロニーのための一枚」で終わらせるべきではない…という気がしている。


Akiyoshi Kitagawa on the web
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by akiyoshi0511 | 2010-07-26 22:37 | monologue

北海道とは思えないほどのうだるような暑さと、まるで梅雨のようなじめじめした日が入れ替わり訪れる。
映画祭が終わってからも相変わらず忙しく、作品の制作期限も迫っていて、日を追うごとに胃の奥に嫌な感じが広がってゆくのを感じる。

眠る前に開く本は相変わらずクレジオの「砂漠」。疲れていると読書のペースは遅い。無理にペースを上げるとイメージが意識からすり抜けてしまうので、ペースを落してでも丁寧に読むように心がけている。

物語の中で描かれているサハラの情景が少しずつ馴染んでくるにつれて、自分が、どこかで見た誰かの写真のイメージを参照しながらその小説の世界に浸っていることに気づき、ふと考える。
その源泉となっていたのはセバスチャン・サルガドの写真だった。彼の写真がアフリカやサハラの人々の生活を題材にしていたことは微かに記憶にあったけれど、改めて調べてみると、「砂漠」で物語の主体として描かれているサハラの民・ベルベル族も、サルガドの被写体となっていた。

クレジオがテキストで織り上げるサハラのイメージ(それは写真の連続性と映画の持続性を兼ね備えた、類い稀な描写力によって齎されるもの)。そしてサルガドの、まるで宗教画のような、時として過剰とも思えるほどの絵画的写真(その姿勢に賛否両論あるにせよ、高次の写真表現であることは間違いない)。
クレジオのエクリチュールには時間の変遷や、持続する意識の流れがあり、サルガドの写真には静止した瞬間から広がる永遠性と永続性がある。

双方の表現は意識の違う角度から、ともに強い普遍性と浸透力をもって、旅を知らない僕の中に、ゆっくりと世界のイメージを築き上げてゆく。


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by akiyoshi0511 | 2010-07-18 13:51 | monologue

写真展・グループ展のお知らせ

●写真展(札幌)
【会期A】8月4日〜12日
【タイトル】『Unknown Northern City』(2008年)
【会期B】9月2日〜12日
【タイトル】『Two Sanctuaries』(2008年)
【場所】:品品法邑(http://houmura.com/
 ※どちらも札幌では初展示となります

○グループ展『東川町国際写真フェスティバル・写真インディペンデンス展』
【作品タイトル】『切り崩された崖/書き換えられた信仰』(2010年・6点)
【会期】2010年7月31日(土)〜9月6日(月)
【場所】北海道上川郡東川町1丁目19番8号 写真の町東川町文化ギャラリー

○グループ展『〜いのちの記憶〜 HOKKAIDO』
【作品タイトル】『崩れた崖の川(団地/岩塊)』(2010年・2点組み)
【会期】10月1日〜10月12日
【場所】フジフィルムフォトサロン札幌

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今週末(18日)は下記のライブにて写真のスライドを上映(投影?)予定です。
http://naoeaster.blog22.fc2.com/blog-entry-336.html


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by akiyoshi0511 | 2010-07-14 08:50 | dialogue

写真展×2

8月と9月、札幌市内のギャラリーにて2つのシリーズを展示します。
どちらも撮影は2008年ですが、札幌では初の展示となります。
それぞれの詳細はまた後日お知らせします。

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by akiyoshi0511 | 2010-07-07 14:33 | dialogue

「#2」 撮影開始

新作の撮影を再開した。MR山の撮影は、やはり先のIS山との光線条件の違いや、季節の変化に悩まされている。撮影をはじめてまだ2回なので、それほど焦る必要もないのだろうが、時間が限られていることも確か。
続くMW山が、観光道路の工事の関係で予定していた撮影ができなくなったことも焦りの遠因となっているが、今はひとまずMW山のことは考えず、「本来のMW山」であるMR山の撮影のことを考えよう。
先日の撮影後に道を間違えてしまい焦ったが、市街地の片隅にある山であり、羆の心配もないので、夏の今は多少無理をして迷うことになっても大きな事故には至らないはず。

この「闇のシリーズ」においては、ぶれても良い要素と、ぶれるとまずい要素がある。ひとまず札幌市周辺で先住民の文化と倭人の文化(あるいは近代文明)の衝突が見られた場所であれば、ロケーションの選定とその撮影順序は柔軟に考えてもいい。
しかしその分、一度撮影をはじめた場所については視点を明確にした上でひとまず単一のシリーズとして集中して取り組み、各シリーズごとに単独の発表に耐え得るものにしなければならない。
このシリーズの本質を複数のNo.から抽出するかたちで提示できるのは、最低でも3〜5カ所のロケーションを撮り終えてからとなる。

映画祭を終え、制作仕事も再開したので、平日のうち3日間は9時から5時まで仕事、5時頃から入山という妙に規則正しい生活が始まっている。
それ以外の2日間はこれまで通りイレギュラーとなるが、ほぼ毎日、時間を作って撮影には赴く。

・・・

休憩時間に、クレジオの「砂漠」を読み始めた。映画祭直前に買って読むのを楽しみにしていて、まだ一度もページを開いていなかった。
冒頭の数ページを読んでみて、やはり一気に引き込まれた。中期以降のクレジオの情景描写はなぜこんなにも想像力に富み、力強いのだろう。おそらくその理由は文章の成熟だけではなく、灼熱の場所への、そして砂漠の民への激情とも言うべきものがそこに込められているからではないか。
クレジオのように、西欧の文脈を冷徹に見据え、西欧と異なる文化に正当な愛情や激情を注げる精神を身につけるのは簡単なことではない。文化への「愛情」という意味では、もしかしたらレヴィ・ストロースよりも遥かに暖かみのある思想がそこにはあるのかもしれない。

差異を見定めた上で、クレオールな文化を標榜すること。それは、宿命と経験と知性のすべてが備わっていなくてはなし得ないことなのだろう。だからこそ僕はクレジオの作品に関しては、心を開いて「受け手」となることができる。
「偶然」や「アンゴリ・マーラ」で開かれた回路は、少なくとも僕にとっては生涯信じるに能うものなのだ。そういう風に読ませてくれる(現代の)作家は実は少ないのではないか。
それは僕にはもちろん不可能な視線だ。だからこそ、せめてこの日本に生きながら(生き存えながら)、「自国」と言う陳腐な枠組みを超越した次元へとアクセスする視線をいつか(写真で)実現したい、と思っている。
最近までそれは到底不可能な視線だと思っていた(日本の近代以後を掘り起こす限りにおいて、西欧を追従した喜劇性が常に付きまとうと思っていた)…が、北海道に戻って3年が経った今、そうは思っていない。それは未だ完全な形では実現せずとも、決して不可能な視線ではないのだと。

少なくともこの北海道には、日本以外の文化の痕跡がある。大地に刻まれた痕跡や名前を手掛かりに、「写真特有のなにか」を用いて、原初の時間を蘇らせるためのコードを導き出すことができないだろうか。
もちろんそれは、必ずしも北海道だけで行われるものではないのだが、少なくとも自分はこの場所に縛られる身であるということは、必然的にそういうことであり、手掛かりが眼前にある以上、無理にそれ以上の自由を求める必要もないと思っている。
by akiyoshi0511 | 2010-07-06 01:58 | monologue