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2012.12.21

一言で言えば「絶望を受け容れること」。ミシェル・ウエルベックの「闘争領域の拡大」はそういう本らしい。

一読すると、高度自由主義社会(人間と人間が極端に相対化された社会)における人間の快楽の追求を、悲哀を込めて描いているように見える。けれどこの小説、そんなに分かりやすいものなんだろうか。仮に、後に同じ作者が著す「素粒子」や「ある島の可能性」の誕生を踏まえて書かれたものだとしたら、まったく違う(あるいはより踏み込んだ)読み方もできるのではないか。
「闘争領域の拡大」の表紙を開くと、まず魅力的な引用文に出逢う。僕はもうその時点でこの長編小説を、一晩か二晩で読み切ってしまいたいという衝動に駆られるのだった。冒頭には、こんな一節が引用されている。

『夜はふけた。日が近づいて来ている。それゆえに私たちは闇の業を脱ぎ捨てようではないか。そして光の武具を身につけようではないか。』
(ローマ人への手紙 第十三章の十二)


闇の業と光の武具。まさに「素粒子」や「ある島~」を予見させるような言葉。まったく作者はどうやって、無数の古典の中からこの魅力的な一節を見出したんだろう。もしかしたらウエルベックはこのデビュー作を書き始めた時点で、続く三作(ちなみに僕はまだ「プラットフォーム」は読んでいない)を既に視野に入れていたのではないか。
残念なことに(僕は既にそれを期待して読んでしまったので)、「闘争領域の拡大」はそういう超越的な世界を描いたものでは全然なくて、飽和した資本主義社会で、ただただ肉体の衰えと叶わぬ欲望に捕われ、自壊してゆく三十路男の悲哀を描いたものだったりする。興味深いのは、主人公よりも少し若い20代後半に設定された(絶望的なほど外見的に醜い)友人が、その悲哀の真っ直中で簡単に死んでいくのに対して、その死を含めた悲哀を、主人公が客観視しながらゆっくりと自壊へと向かうところか。主人公が架空の小説を認めているという設定も相まって、この本は終止、幽体離脱した人物が自分の人生の末路をぼんやりと眺めているような印象を与えてくる。そして、その浮遊感はやはり後の作品の世界感に繋がる。

・・・

ウエルベックの物語に倣えば、消滅が進行しているのは自由でも民主主義でも、まして個人のアイデンティティでもなく、僕たちが日々体験し、悩まされているこの現実そのものなのだ。しかもその消滅というものは加速度的に進行している。クローニングと情報技術、この二つが自律的に進化し始めた時点で、私たちが悲哀や歓喜をこめて体験する「現実」というものは、少しずつバーチャルリアリティに置き換えられているのだ、ということになる。
これで、僕がこの小説家に否応なく惹かれる理由がはっきりする。つまり、ウエルベックの描く未来は、ボードリヤールが悲観的に予見した未来をほぼそのまま寓話化したものだった、ということ。

ボードリヤールとウエルベック、双方の言葉を背景に世界の現状を物語るなら、「今この時代」というタイミングも、情報網の中で個人も国家も失われてゆく過程の、その氷山の一角を垣間みているに過ぎない、ということか。何10万分の1の確率で訪れてしまった未曾有の大災害や大事故が背景としてあるにも関わらず、そこに端を発した選挙結果がかくあるということさえ、既に現実とバーチャルリアリティの境界を見失い、統御された情報の渦の中の多少ファジーな存在(=権力の予測可能な範疇の行動しか取れない存在)でしかなくなった私たち「市民」が、全世界で経験しはじめた、遺伝子レベルの改変を伴う世界の消滅の、端緒に過ぎないのだと…。

仮にウエルベックの寓話をボードリヤールの思想に繋げて、これこそが現実の予兆であると言い切ってしまうならば、どう考えても妄言にしかならない。
けれど、これは本当に単なる寓話と思想の偶然の一致であり、またその一致に魅せられてしまうことは妄想なのか?実はそこのところさえ良くわからなくなるほどに、世の中が混沌としてきたような気がする。既に、私たち自身の現実を見る眼が変わりつつあり、何かに慣らされつつあるのではないかと。
by akiyoshi0511 | 2012-12-21 03:04 | monologue

2012.12.15

久しぶりに短期間で本を買い漁った。先日の日記にも書いたカミュの「ペスト」や、トマス・ピンチョンの「ヴァインランド」(新訳)、それにミシェル・ウエルベックの「プラットフォーム」と「闘争領域の拡大」。加えて純粋に写真論の本でデイヴィッド・ベイドの「写真のキーコンセプト」。あとは近所の古本屋でオースターの未読の長編数冊にブコウスキーの短編集を一冊、そしてトーマス・マンの全集から「魔の山」上下巻(100円コーナーにあった)。だいたいそんなところだと思う。これだけ一息に揃えると、久しぶりに本で散財した感じがする。でも中古で取り寄せたものもあるので、金額はそうでもない。

まともな文学に現実を忘れて浸かっている時間というものは、僕にとって人生で最もまともな時間なのだけれど、30代に入ってから国内作家で読みたいと思えるものがまったく見つからず(写真論や美術論、あるいは全然面白いと思えないけどがんばって読むしかない東西の思想書を、背伸びして解読している間に、いつの間にか純文学も例の「J文学」もジャンルとして消滅していた上に、ケータイ小説とかライトノベルと言う名の、少なくともその一部は掃き溜めレベルとしか思えないジャンルが書店の国内文学コーナーを占拠していて、90年代末までにデビューしている作家を除けば、誰がまともな作家なのか全く分からなくなってしまった)、しばらく小説から遠ざかっていた。

春にフリーランスに戻って、初夏まで業務の体制づくりと写真家活動の方で忙しく、盛夏から晩秋は仕事がどんどん動いて、それらにひとまず全力で立ち向かうことに注力していた。また、その時期は北海道の最高のオンシーズンでもあったので、少しでも時間があればロケハンという名のピクニックや、夜釣りに出かけたりしていて、読書と言えば先ほど書いたように、がんばって一日数ページのペースで読み進める思想書の類いくらいだった(実際はもう少し読んでいると思う。たとえば思い付きで暇つぶしに川上未映子を買ってみて、好きになって一通りの著作を読んだりはした)。

11月、唐突に雪が降りはじめて、空いた時間も外に出ることが少なくなり、仕事の量もほどほどになってきたので、心身の調子(リズム)を取り戻すために酒を飲むようになり、目と頭が疲れるタイプの本ばかりではなく、小説もまた読みたいと思うようになったのだけど、読みたい作家が見当たらなかった。それでひとまず、以前から暇潰し的に読んでいたオースターの未読の本や新刊(「ブルックリン・フォリーズ」は内容も装丁も本当に愛おしいと思える素敵な本だった)、ウエルベックのマニアックな初期作品(最新作の「ある島の可能性」はこの10年で出色の長編小説だと思う。少なくとも僕の中では、これを超えるものに暫く出逢えそうにない)、そしてやっと以前から欲しかった、とりあえず退屈することはなく、しかもその長大さ故にしばらく読破できなさそうなトマス・ピンチョンに手を出した次第(この新訳シリーズの装丁が秀逸なのは言うまでもない)。トマス・ピンチョンは年末年始の楽しみとして取っておいたのだけど、有り難いことに今年も年末年始は駆け込みの案件などで休暇はなく、どうやら毎晩少しずつ読んで行くことになりそう。

購入した作家はほとんどが、既に何作かを読んだことのある既知の(あるいは全て既読の)作家だけれど、トマス・ピンチョンは実ははじめて触れる。僕は文学を体系的に学んできた訳ではないので、ピンチョンの作品が文学史のどのカテゴリに入るのか(ポストモダン文学の異端者ということくらいしか)分からず、どの程度の文学的価値があるのかも分からない。でもとにかく以前から、その文体や粗筋になんとなく惹かれていて、いつか時間ができたらしっかり読んでみようという意思だけは持っていた。この歳になると、もう文学的・歴史的価値がどうかなんて、ほとんど気にならなくなるというか、急に人生も折り返し地点という気がしていて、そんなことに捕われていないで読みたいものを読んでいこうじゃないか、という開き直りもある。ついでに言えば、僕にとって小説はもともと、映像演出や写真のための「資料」でもある。絵を描けない僕は、イメージを構築するために主に言葉(…と、謎の図面)を使う。だから、言葉が枯れ果てていると、映像仕事が進まない。

そんな具合で僕は「趣味半分、仕事半分」の読書に復帰した。大抵、一日の作業を終えて布団に潜り込んでから本を読むので、不眠からも少しは解放されるんじゃないか。それにこの年末年始も例年通り、(映像の)編集仕事が多いので、どうせほとんど部屋に軟禁状態なのだ。レンダリング時間という名のアイドリング時間を、少しは有効に、楽しく過ごす年末年始にしたい。
by akiyoshi0511 | 2012-12-15 22:13 | monologue

2012.12.13

国政は絶望的な状況で、仕事は相変わらず好機であると同時に崖っぷちで、公も個もあまりにも混沌としており、ほとんど判断がつかない。時々、大人の事情に否応なく飲み込まれて、相変わらず猫の額ほどの居場所を死守しているに過ぎない自分の立場を思い知らされたりもする。幸運な人を見ると、不幸に抗い続ける自分の脆さを痛感するものだ。

写真家の姿勢の話で、ふと友人が「世界を見るのがイヤだからファインダーの中に逃げ込むか、世界にしっかり目を向けつつファインダーの先にそれを見つけ出すか。」という両極の定義を挙げた。おそらく、今まではその両極で良かった。でも、これからはファインダーの中に逃げ込んでも否応なく社会情勢は入り込んでくるから、その拒絶/受容の力の質と量も問われる。

写真に限らず、作家のコンセプトとして社会や政治思潮を見据え、洞察し、尚かつ純粋にそれ自体を題材化して表現を行うことは、どうしようもなく難しい時局になってきた。インターネットの情報拡散と操作で、精査した論理の力が及ばない世界になってしまったから(蛇足だけれども、おそらく現在、もっとも権力側の情報操作に貢献しているメディアがtwitterだと思う)、もはや、テロ行為のように衝撃と賛否を呼び起こす際立った表現しか受容されなくなりつつある。
記憶に新しいものでは、震災発生直後の福島第一原発で監視カメラに向けてパフォーマンスを行った「指差し作業員」の例が思い起こされる。肯定か否定かを含め、人それぞれ解釈は異なると思うけれども、少なくともそれが自己自身を渦中に投じることで生じる「重み」に根ざした、いわば自爆テロのようなパフォーマンスだったことは疑いようもない。

映画監督の園子温の評価がこれまでにない程に上がってきているのは、彼が長年貫いてきた極端な斬り込み方に、社会情勢が追い付いてきたからだと思う。もはや彼は異端ではなく、もっとも真っ当な表現者に定義が変わりつつある。
僕は恐らく、後者の戦い方はもうしない、できないと言ってもいい。それは数年前のある時期から、僕自身の心身の状況が否応なく変わってしまったからだ。
だから、前者の姿勢のもとに、複雑に絡まった糸から信に能う一本のラインを手繰り寄せようと、四苦八苦しながらこれからも写真や映像を撮り続けることになると思う。

今週は、睡眠時間を削って2つの新作をあるコンペに送り込んだ。結果はさておき、作品は生まれたのだから無益なことではないだろう。間髪を入れず、年始の大きなコンペに、秋に撮影した枚数の多いシリーズを投入する。仕上げていないシリーズもあと一つ控えている。まずはそれらを全て出し切ってから、自分自身への審判を下したい。
思えば映像にせよ写真にせよ、これほど濃密に制作と向き合い、作品を量産した年は今までになかった。失策もあったとは思うけれど(出品会場に急ぐあまりオービスを光らせたりもしたし)、30代半ばに入っている自分に与えられた残り時間を痛感する中で、10の失敗の中に1の成功が含まれていれば、それでいいという考え方に必然的に変わった。仕事の映像も個人の取り組み同様、作品が一本でも多く世に出て、少しでも残って欲しい。

再検査になっていた血液検査に大きな異常はなかった。これはほとんど僥倖と言ってもいい。身体は(少なからず醜くはなったかもしれないけど)まだ大丈夫。思考も出来るし動くこともできる。投票もできるし、出品もできるし、仕事にも全力を注げるし、おまけに酒を飲んでも問題はないらしい。
朝に生まれ、午後には成熟し、夕方に老人となり、深夜に一度死に、翌朝生まれ変る。そういう日々の繰り返しを求めている。微かに脳裏に焼き付いたまま引き継がれるものは曖昧模糊とした記憶の情景や漠然とした想いだけであり、その記憶を個人の枠を越えて普遍化する力があるのなら、おそらく僕はまだ生きるべきではないか。
最初から疲れ果てている僕は、それでも次へと向かう意思を得る口実を考え続けるだろう。だから夜毎、酒を飲んで、写真を仕上げて、カミュとブコウスキーとトマス・ピンチョンを並行して読む。酒と本に深く潜る行為は、明日を迎えるために一度、自分を忘れ去る儀式のようなもの…。

ちなみにカミュの「ペスト」は10年振りに再度読んでいる。冒頭で主人公リウーの妻が街を出るのと入れ替わりに、ペストがその街で猛威を振るい始める。街に残ったリウーはそこから歩み始める。私情を埒外に置き、超然と善を貫くための準備ができているということだ。作者によって仕組まれた偶然が、主人公の善を裏から支えている。本当に良く出来た長編だと思う。重い題材でありながら、これほど安心して読める小説はそう多くはないんじゃないか。震災以後の世界で読むカミュは、少し違った趣がある。不条理の定義は、それが多くの人々の前に目の前の現実として立ち現れたとき、なにか別の性質のものに変わったのかもしれない。誤解を避けるために書いておくと、福島の現状とペストの悲劇の舞台を重ねて読んでいる訳ではなく、不条理と言うものに、個人的にあらためて惹かれて読んでいる。
by akiyoshi0511 | 2012-12-13 09:46 | monologue