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2005.8.28

2週間ほど前、O鉱山で写真撮影を行った帰途、濃い霧に囲まれて前後不覚に陥り、2時間近く道なき尾根をさまようことになった。奪われてゆく体温、日没が迫る危険、激しいのどの渇き…。しかし最大の恐れは何よりも、霧そのものの圧迫感だった。5メートル四方の、笹に覆われた原野以外は何も見えず、自分が今どこにいて、何処に向かって歩いているのかも解らない。死の恐怖というよりも、その時自分を含む光景自体がある種の死、そのものだった。
危機的状況においても最低限度の理性を保つことができると考えていたものの、あの圧迫感のなかでは到底冷静ではいられそうもなかった。刻一刻と夜が近づく恐怖とともに、果ての見えない霧の可視的な恐怖というのが確かにあり、一定時間以上その状況に置かれれば錯乱してしまうだろう、という予感に苛まれた。意識を繋ぎ止めながら、尾根を闇雲に走り回り(霧を見渡すのが恐ろしくて立ち止まって状況判断することなどできなかった)、本当に偶然、山道に復帰できたのだった。

しかし、もしもあのまま一晩山を彷徨うことになっていれば、何かが変わったかもしれない。極限状態というのは欲して得られるものでもない。無論、命の保障もないけれど。

去年だったか、横浜で見た現代美術のパフォーマンスをふと思い出した。洞窟の潜行を体験した時のトランス状態を舞踏と織り交ぜて表現したものだった(気がする)。パフォーマンス自体は拍子抜けするところもあってあまり印象に残らなかったが、高山での出来事を機に、思い出したのだ。
ここのところ、極限状態に現前するある種の「聖性」というものを意識するようになった。自分の認識の追いつかないもの、否、誰の認識も追いつかないものというのに否応なく引かれる。無論、いま押し進めている取り組みの反作用というのもあるのだろうが…。
今まで嫌悪して、あるいは嫌悪しないまでも意図的に避けて来た、認識を超えたところにあるカタルシスや衝動というものに、否応なくひかれていく。

選挙結果が出た夜、友人と話をしていた。無論、言葉を失う状況には違いなかった。友人の言うには権力とは実体なき「死」そのものなのだという。それだけでは論理性を欠いた飛躍には違いないが、ふと、実体なき権力=死というものはなにか、極限状態における聖性というものと紙一重であるように思えた。しかし「権力」というものを掘り下げる際に見落としてはならないのは、それがあくまで人的/制度的なものであるということだ。彼が思わず提示したその「死」という絶望的なものを(ちなみに僕はその直前に「今回の人々の決断はまるで人間が自壊を求めているようだ」というようなことを言っていた)、もう一度、制度の構造に引き戻して認知しなおすことを怠れば、政治権力と、本来その上部構造である人間のみずから求めるところの「死」というもののつながりを明示できておらず、また、明示できないままに死と名付けてしまうことは非常に危険なことにもつながりうる。

(トーマス・マンの)「魔の山」の終わり近くの章で、主人公のハンス・カストルプはただ一人で冬山に登り、吹雪に見舞われ遭難体験をする。その中で、議論や認識の及ばない領域を知覚する。続く最終章では、まるでその体験に呼応するかのように、ドイツロマン主義の悪しき帰結でもあった(ロマン主義自体は決して悪しきものではない)第一次世界大戦への参戦という行動をとることになる。トーマス・マンは彼の大戦時には右翼サイドの論客だったというから、これは批判的というよりは象徴的な目論見で描かれたものなのかもしれないが、いずれにしても見出しうるのは、その二つの状況/行為は実は表裏一体なのではないかということである。人智の及ばない自然状況から得られる極限状態と、人間の利害関係と集団心理が高じて生まれる極限状態というものは、鏡像の関係にある。そして、さらに見落としてはならないのは「平常からの逸脱」の源泉の違いなのである。いわば「神」を取り違えないこと…。あらかたの人間がそれを見落としてしまうのはなぜだろうか。

ところで、現代においてはマスメディアが神にとってかわって、神の顔をしてのさばっているのかもしれない。メディアの全てが悪ではないのは勿論だが、メディアの構造に悪しき源泉が潜んでいることもまた事実だ。解散劇〜選挙報道の立ち上がりで、一部の影響力のあるTVや週刊誌が「小泉氏は郵政こそが争点だと言っている」と『半ば確信犯的に』『まるでご神託のように』言ってしまった時点で、この選挙は既に終わっていたのだろう。政策選挙であるという(当然そうであるべき)言葉など、一瞬でもみ消されてしまった。誰かまじめに民主のマニフェストを読んだろうか?(少なくとも4年は通用するものであったと僕は思う)この数年で小泉氏のもたらした諸処の政策を、一体誰が冷静に検討しただろうか?郵政民営化が今このときである必然を、またそれがもたらすものを、誰が実際的に想像しただろうか?

勝利後の小泉氏の一言「民主党は郵政民営化に反対した時点で負けだ」。自ら争点を絞るためのレールを敷設し、その通りの帰結へ持ち込んだ小泉氏が、自らの営為を正当化するとともに「他の議論は一切無視しちゃいました。無論、自衛隊派遣などは延長しますよ」という姿勢を余裕の表情で明らかにした言葉だ。この言葉とともに、彼はいっさいの大衆に対し「お前ら大衆はやっぱりバカだなぁ」と内心ほくそ笑んでいるに違いない。その内実さえまともに論じられなかった、明らかに茶番であるところの郵政民営化争議、その茶番でしっかり覆い隠されているのは弱者への弾圧である。そういう言い回しが被害妄想だと言うのなら現実問題に限定して、低所得層〜中産階級への大増税と言ってもいい。言うまでもなくこれから大損するのは今回メディアの報道に流されるがままに自民党に投票した「都市部の若い無党派層」である。電車男に歓喜し、セカチュウに泣き、年に一度の長期休暇を海外旅行に充てている、寝る間を惜しんで働いている、健康で、健気な人々である(健康かは分からないが、残念ながら僕自身も今のところはその層に含まれるだろう)。

・・・

嘗て長く政権を握った自民党は、ゆるやかな自己調整機能を…所詮利害関係に過ぎないとはいえ多少の多様性を…有していた。占領政策から朝鮮特需のどさくさの中で延命した保守勢力であることはいたしかたないとしても、戦争そのものへの逆行を回避するだけの自己批判能力は備えていた訳だ。戦争の罪悪と、戦後復興という労苦を知る者もそこには含まれていたからだ。しかし21世紀の今になって政治を担う自民党はそうではない。戦争の悲惨を知らず、剥き出しの右翼性と資本「原理」主義を携えたいわば急進的団体である。

文字通りの右へ倣えになりきらなければ、基本的人権も保障されない時代が、そう遠くはないように思われる。戦争を知らない世代による戦時への逆行…。無知の所作だけに実効力も知れているが、今の調子で国民が添い寝してしまえば想像以上の危険な現実が訪れる可能性はある。
# by akiyoshi0511 | 2005-08-28 00:00 | dialogue

2005.8.15

「『パサージュ論』熟読玩味」という本を読んでいる。今はモードに関する箇所を読みすすめているのだけど、自分はまず、他ならぬベンヤミンの性(癖)に共感を覚えてしまうのだった。
古書を蒐集し、図書館に籠って古い情報の渦から己の五感を頼りに断章を探り当て、編纂する行為。それ自体が非情に倒錯的であり、自己投影的でもある。その自己投影ところが言うまでもなく難しく、ベンヤミンの詩人たる所以でもあるのだろう。直感の根を探る営為そのものが措定するものに、己自身でさえ計り知れない資質のようなものが問われる。
性(癖/倒錯)には必ず人の本性が介在する。故に、実は最も端的にその人の論理構造を露にしてしまう。複雑化した性は知性の反映ともなるが、反面、どんなに頭のよい人でもごまかせない。ベンヤミンは折り重なる時間の薄衣の向こうに、朧げに見える概念に倒錯した。それこそが、アウラの正体と言えるのではないか。
# by akiyoshi0511 | 2005-08-15 00:00

2005.8.1

週末2日間、相変わらず映画のロケハンや打ち合わせで首都圏を駆け回っていた。土曜の午後に数時間の猶予ができたので(眠ればいいものを)、灼熱の都会からのがれて相模湖付近の沢を歩いた。沢歩きの時間はなにも考えず、とにかく無心で上流へ向けて歩き続ける。数メートルの滝や深い落ち込みをいくつも乗り越えながらの行程は、体力的には結構きついけれど、とても心地よいもの。釣りもせず写真も撮らず、ただひたすら歩くだけで心身が生き返る。
呑み込まれそうな轟音をたてる滝を越えたあとに、突然静寂の流れが訪れる。立ち止まって、両脇の杉林に見惚れながら蝉の声を聴く。郷愁を帯びたひぐらしの声が、こだまするように森いっぱいに鳴り響いている。日常の感覚とも、制作に取り組んでいる時の感覚とも次元の違うおおらかな自然の喜悦。
疲れが喫水線を越えるとこのような自然の誘惑に抗うことができなくなり、無理をしてでも時間を作って森や沢へ向かう。札幌市に生まれた自分の原風景はいわば半陰陽なのかもしれないと思う。…端正な都市を自転車で駆け抜けてゆくと、その先には手つかずの原野や森が広がっていた。ある世界(此岸)とべつの世界(彼岸)を日常的に行き来していて、双方に満たされていなくては生きては行けないという自覚もあった。
# by akiyoshi0511 | 2005-08-01 00:00

2005.7.29


「焼身」を読み終えて、共同幻想論に戻った。丁寧に読みすすめる。しばらくは退屈しない読書が続きそう。

「焼身」はこれまでになく、文学者であり行動する個人である宮内勝典が浮き彫りになる佳作だと思う。「始祖鳥〜」や「金色の虎」は立派な秀作だけれど、彼が彼自身から一歩高いところまで上り詰めて、思想が先鋭化し意識がスパークした状態で書かれており、作品としての完成度は至高のものであるとしても、凡庸な読み手には教義的にすぎて、距離を感じてしまう面もあった。聖も邪も併せ持ち、清濁併せ飲むという気概、常に善悪の彼岸を見据えながら、世界市民に立ち返って模索するという意識の強度。そういうことの崇高さはよくわかる。主人公はいつも若々しく魅力的で、世界に翻弄され全身に擦過傷をまといながら、人間の、人間たる姿を直視する様は本当に美しいと思う。そういう意味で氏の作品は通俗ではなく芸術の領域に踏み込んでもいる。しかし誰もが、何ものにも依ることなくあのような個としての強度を保てる訳ではない。宮内氏の文学や言動はこれまで、(誤解を恐れずに言えば)ある種の選民性を帯びていた。文芸復興(ルネッサンス)というスローガンにも現れているように。現代における天才(錯誤であれ)でなければ、彼の作品に100%のシンクロニシティを見出すことはできないだろう。それくらい峻厳に煮つめた正論で、世界を突いていたということなのだが、その「強度」ゆえに、脆弱な読者を受け手をはじき返すという側面もあった。

しかし「焼身」…老年を迎えつつある宮内氏本人のレポートであるという率直な私性にまず驚く。そして9.11以後の世界という真空状態(歴史的に見ても、こういう時に一気に保守反動が台頭するのは明らか)において、新たな一矢を模索する姿は今までとは少し質が違う。一個人としての限界や、思想と矛盾する弱ささえ愚直なまでに明るみにし、自分のすべてを遡上に上げてやろうという強い居直りと、あらたな覚悟を感じる。たった一人の師を求めて彷徨する様、そのなかで己を正直に回顧し、己の人生を抱きとめようとする優しさ(それは意識的にも無意識的にも、妻への視線に顕著に現れる)が、読むものの心を動かす。

密林で、X氏ことクァン・ドゥック氏を追体験するという「個としての思想的接続」はこの本のハイライトだけれど、多少の強引さを禁じ得ない。その意味でこの作品は思想的には未完に止まっていると思う。信じるに値するあらたな何か、の本質は、まだ見定められないのだろう。しかし寧ろ秀逸なのはその直後にやってくる、朽ちた寺での、ハンセン病の少女との邂逅と、そこでの畏怖と挫折の感覚だと思う。思わず走り去った妻への気遣いに、どうしようもないジレンマと痛みが刺してくる。文学者としての自分が瓦解しかねないような痛烈な自己批判。そこに、読み手としては逆説的にわずかな希望を見出すことができるように思う。

真摯に考えつづけ、そして行動しつづけ、悩みつづける。微かな正論を得てもなお、時には圧倒的な世界を前に一瞬で吹き飛ばされ、時にはソフィスティケートされた制度にはじき返される。しかしそれと覚悟で、暑い炎天下を、危険な密林を思考しながら歩き続けること、それこそがまず意思であり思想なのだと思う。人間が立ち上がって歩行をはじめたときのように、私たちはゆっくりと、「人間自身」について考えることのあらたな次元を切り開いてゆかねばならないのだろう。

「アンダーグラウンド」の村上春樹に爪の垢を煎じて飲ませたいほどの、苛烈な誠実さ。団塊世代を小馬鹿にする「身軽な」少女たちに突きつけてやりたい切実な生々しさだ。
# by akiyoshi0511 | 2005-07-29 00:00 | monologue

2005.7.15


数あるタルコフスキー解釈本の中でも秀逸な一冊「永遠への郷愁」を再読する。とくに「ノスタルジア」「サクリファイス」の項目を丁寧にトレース。以前に集中的にタルコフスキー関連の著作を漁った時期は、旧ソ連時代の「惑星ソラリス」「鏡」「ストーカー」を中心に読んだ。亡命後の後期の方が、技術的/思想的洗練度が高いのは分かっていたが、それら後期の集大成的作風に至るまでの、諸処の煩悶や実験の、暫時的帰結のあらあらしさのようなものに、むしろ馴染むことが出来たのだった。
しかし最近になって、後期の2作にも同じくらいの愛着を感じるようになった。両作を受け容れるのを邪魔する心情的な壁がなくなってきている。

自分自身の及ばぬ領域を、少しずつ受け容れるようになってきている。それでも、本当の叡智に触れるだけの用意ができるのは、まだずっと先のような気がする。
# by akiyoshi0511 | 2005-07-15 00:00 | monologue

2005.7.11

土曜は幕張ロケハン。一通りの確認は済んだので、日曜は体調を取り戻すために1日オフにした。思えば、一ヶ月全く休みなしで行動していた。

陽がやわらぐ時間になってから車を出した。途中で弁当を買い、車で30分弱のところにあるいつもの沢へ。夏日でも川の周囲はひんやりとしている。食事を済ませてから、湖の周囲を数キロ歩いた。舗装されているが一般車は立ち入り禁止なので車が来ることはない。崖下のダムを眺める。渇水で、ダムに沈んだ立ち枯れの木々が茶色い水辺に剥き出しになっている。はじめてここへ来たとき、まだ春で水も豊かだった。翡翠色の水面に顔をだす木々は美しく思えた。
体の疲れに負けて、路上に横たわり数分眠った。自然のなかに切り開かれた人工の路で、車や通行人を恐れることなく横になる、奇妙な感覚だった。ガードレールの下の隙間から谷の向こうの針葉樹林が見える、一面ビリジアンのグラデーション…。ここは一体どこなんだろうかと思う。
帰り道、道の真ん中で裏返しになっているひぐらしを見つけた。生きていたので、つまんで付近の木にとまらせておいた。

街のコインランドリーで洗濯を済ませ、ホームセンターでこまごまとした買い物をして帰宅した。既に夜の9時を回っていた。買ってきたゴーヤーで炒め物をつくり、ワインで夜を過ごす。
# by akiyoshi0511 | 2005-07-11 00:00 | monologue