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2017年の終わりに

大樹町滞在中に知人から教えてもらった、Beckの "Morning Phase" を札幌に戻ってからもほとんど毎朝聴いている。
二十歳になるかならないかの頃に毎日のように聴いていたBeckから、軽くタイムスリップするかのように20年振りのBeck、音楽はほとんど別物だけれど、そこには明らかに自分が辿ったのと同種の時間のヴァイブレーションの変遷を感じる。つまり、年齢を重ねながら世界の趨勢を見つめてきた帰結として、このナチュラルな音に至っているという勝手な思い入れに答えてくれるものなのだ。いちリスナーとしての感想。

30日の夜、森岡書店の店主が書いた「荒野の古本屋」がおもしろくて一晩で読んで、ある時代の懐かしさにも触発されて、少しずつ自分自身の言葉を奪還して‥いや、取り戻していこうと心を決める。全てが地続きではなくとも、何か一本の線でつながっている、という閃きは大切だと思う。
この国の航路は確定し、オリンピックという「聖戦」も近づき、自分はそんなものごととは無関係に、そろそろ退っ引きならない40歳を迎える。SNSの時代には付いて行くのが精一杯で個人の発言の重さを測りかねており、もはやブログで国策批判すらできないけれど、実際のところ、その種の批判を含めた包括的な正義や悪にはもうほとんど興味がない。政治に関心がないわけではないし投票もするけれど、それは一人の社会人としての良識の範疇での意思表示だと割り切っている。
今年亡くなった塩見孝也氏が最後まで貫いたものに、僕はもう関心すらないのだ。故人への個人的なリスペクトと、その思想への距離は別のレイヤーにある。人は変化しながら戦うべきで、凝固した意思を繰り返し社会にぶつけることでは活路が見出せないのではないか。己の中のか細い一本の糸を信じながら、囁くこと、囀ること、風のように振る舞うこと…。僕はそういう均衡を大事にしながら人生の後半を迎えたいと思っている。

一昨日、2017年の最後の撮影で、洞爺のガラス作家さんの仕事を撮らせていただいた。10年前、北海道に来たばかりの頃に作品を知ったその人とは、5年前にある仕事で間接的な関わりが生じて、10年目の今年になって初めて直接仕事をしている姿を撮ることができた。10年前の僕の目には、北海道というフィールドも、その人の仕事も憧れの彼岸に見えたものだった。
次に接点が生じるのは何年先だろう。あるいはもうないのかもしれないが、その人の仕事を撮るという本質的な対峙のところまで経験できて、今年は、最後の最後に風通しの良い場所に立たせてもらった気がする。

# by akiyoshi0511 | 2017-12-31 13:53 | monologue

大樹町撮影2日目

とある案件で昨日から大樹町に来ています。初日は徹夜編集からの現場入りだったので、カメラを回すことで精一杯(意外と元気だった)。
夕方に宿舎に入り、9時間ほど泥のように眠りました。

大樹町は都合、今年3度目ですが、今回は夏とは違う案件。詳細は書けませんが、夏のも今のも重大ミッションです。そして、この町に滞在するときは必ず泊まりたいのがメムメドウズ。
実験住宅というコンセプトハウスが牧場内に点在し、隈研吾氏がリノベーションした厩舎に宿泊できます。

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最高の環境ですっきり目覚めて、バスタブに湯を張り、ふと思い立ってBGMはABBAのDancing Queenから始めてみる2日目(たぶん屋外はマイナス5度以下)。
はじめて下北沢を散歩した日、何かのショップでこの曲が流れてきて、たまたますぐ側に当時好きだった女性シンガーがいて、ちょっとした感動を覚えたのはもう20年前の夏です。当時の生業は所謂VJでした。

多摩川べりで過ごした20代はあっという間で、30代の10年を東京と札幌を出稼ぎのように楽しく往復し続けているうちに、世間にはいつしか二拠点生活などという呼称が生まれて、自分もそういうスタイルとして理解されるようになりました(数年前までは、東京に住んでいないだけで不利はあったんです)。
巷に溢れるマイナー映像作家のひとりに過ぎないですが、見方を変えれば意外とよく生きたのかもしれない。なんとなくぶら下げ続けているこのブログも、そろそろ20年目が見えてきました。まだまだ、これからやりたいこともたくさんあり、進行形でいくつかの準備もしています。
この10年はSNSの時代と重なりブログは放置していましたが、徐々に原点(=馴染みあるネットとの関わり方)に回帰してみたくなった。
過去作品について書いたり、現状を書いてみたり、文体も曖昧なままですが、ブログを再開してみようと思います。

それにしても大樹町に来てから昨今ありえないほど体調が良い。
心を良い状態に保てるように環境をセットアップするのも、重要なことなんだと改めて思います。

では、また。


# by akiyoshi0511 | 2017-12-12 06:53 | dialogue

【追想】 \"annoski\"(2010)の撮影メモから_f0048583_02153173.jpg

「トゥイェ・ピラ」(豊平川上流・藻南公園付近・"annoski"の起点)

雲間から時おり光が射す午後、市の中心部を流れるT川の上流を、M公園のあたりから下流に向かい歩いていた。
やがて下流へと続く視野の片隅に水煙が現れ、その場所を目指して下ってゆくと、忽然と、圧倒されるほどの大瀑布が現れる。

この一帯は札幌南部の市街地に位置するが、昔から「石山」と呼ばれ石の産地でもあり、都市河川としては想像し難い岩礁の地形に、滝や大淵が見られる。滝の落差は5メートルほど。流量は膨大で、淵の底は見えない。恐らく場所によっては水深5メートル以上はあるだろう。かつては「おいらん淵」とも呼ばれ、世を儚んだ花魁が身投げした場所でもあったのだと過去に何かの本で読んだことがある。確かに、飛び込めば(あるいは足を滑らせて落ちれば)ひとたまりもないような淵ではある。

この日はどちらかというと、20年ほど昔の記憶を頼りに、ほんの気晴らしのつもりでその場所を訪れたのだ。淵も滝も昔見たそのままだった。(ふと「20年」と書いてみて、そんな時間の段差が自分にも生じたのだと思うと、少し不思議な気がする)。
都心にこのような景観が見られる都市が、果たして国内において他にあるだろうかなどと考えつつ歩いていると、不意に、その瀑布の遥か向こうに一棟の大きなマンションが目に入り、流れや岩肌との強いコントラストに目を奪われた。
眼前には、まるで箱庭にアメリカ西部の光景を再現したかのような荒削りな景観が広がっている。春の午後の残照が、その岩盤を柔らかく、立体的に照らし出していた。西部開拓と北海道開拓をなぞらえて見ればそれもアイロニカルなものだが、その向こうに、まるで楼閣のように一棟の団地が佇んでいる。さらに下流側を見渡せば国道沿いに生協の看板や、密集した街区が見渡せた。想像を絶するというものではない、けれど奇妙な光景だった。

改めてカメラを携え構図を考えてゆく。丁度滝の下流側からそのマンションを見やると、まるで滝上にマンションが浮いているかのように見えるポジションを見つけた。これは確かに、想像力の範疇を越えた景観に思えた。

想定している意味から、何かが「はみ出て」いるのだ。
それで、この場所でひとつの仕事が成立すると確信を持つ。

季節、光、天候、あるいはそれ以外の偶発的な何か。諸条件を鑑みれば、すぐにこの撮影を完了することはできそうにない。また、然るべき時節を待てば良いというものでもなく、折りをみて何度か来ることになるだろう。撮るなら早朝が良いかもしれない。

# by akiyoshi0511 | 2017-12-09 02:20 | old text

毎週の網走出張とほぼ同時進行で、毎週の東京出張。諸々の命運をかけた極東へのドライブの行き先は少々不透明。映画は、撮影と録音をなんとか終えて編集に着手したものの、作品の内容とは無関係に懸案事項が生じており、まるで「ことの次第」そのもの。全てが無事に解決したら3日間くらい何も考えずに自然の中でキャンプを張って過ごしたい。

それにしても、オホーツク・北方起源説関連の試みに着手するたび、新潟の友人をよく思い出す。彼のくれた素晴らしいヒントのお陰で僕は本当に死にかけている。おそらく触れてはならないものに触れているのだろう。党派性のないオルタナティブ、ニーズのないカウンター。無名のまま消えていった、しかし本当は誰よりもまともで慧眼の持ち主でもあった作家たちの住まう煉獄が眼下に見える、あるいは既に自分もそこに立ち入っている。


上記とは別件で、札幌市中心部の地下通路にある「500m美術館」というところで作品を展示しています。昨年、北海道立近代美術館の企画展で比較的大型のプリントを製作した「197X」というタイトルのシリーズ。期せずしてこのシリーズが撮影された場所での展示という意味でも面白い試みになったと思います。

※8日現在、企画展主催者の作成した展示キャプションに誤りがあるようです。作品タイトルが「brochen / Okhotsk」という私の別の作品群のタイトルになっていますが、正しくは「197X」となります。ご了承ください。



# by akiyoshi0511 | 2016-04-08 02:32

年末から動き始めていた案件で、映画をつくるというミッションがある。映画といっても劇場公開を目標とするべきものではないし、まして収益ベースのものではない。今のところこの仕事は(実質上のパイロットワークである一作目に限って)、とにかく海外映画祭などのアカデミックな展開を主目的に、その題材やテーマの部分でクライアントの意思に叶うものにする‥という、非常に珍しく幸運な形態をとっている。

正月のゆったりした道東訪問から一転、今度は映画制作のために連日網走や道北を駆け回り、ロケハンや出演交渉などの段取りを進めつつ、同時進行でシナリオの仕上げ作業。収益のない仕事になりつつあるのは承知しつつ、ここで自分たちがやっておくべきことはなんなのか、表層で、建前で成果をあげるのではなく、本当に強い結果とはどのようなものかを念頭に、自分とスタッフは全身をそこに投じて準備を進める。言うまでもなく通常の仕事よりも考えることが多い。題材が地方の歴史や人に関わるものでもあるので、現地で関係者の話を聞くプロセスも欠かせない(これは何よりも楽しい作業でもある)。兎にも角にも、映画制作を短い納期に向けて動かすとなると、日頃の広告映像とはまったく異なるワークフローが生じる。

ある側面においては、こんな毎日は10数年前には日常だった。当時は8ミリ映画や16ミリ映画で、なんら外部からの要請もなく、ただただ己の執心のみに突き動かされながら、日夜映画について語り、シナリオを何度も読み返して校正し、ロケハンを繰り返し、出演者を探し回ったりしていた。当時の制作集団は3人か5人くらいのグループで各々が交代で監督作を作るという流れで動いていた。長編が形になったのは最初の一人で、二人目は撮影のみ完了して未編集、三人目の自分は、長編の撮影半ばで諦めざるを得ない状況になった。
このブログは2005年から始まっていて、それはちょうど自分の長編制作に本腰を入れ始めた時期だと思う。当時の映画論や社会への視線が青臭すぎて読むに堪えないけれど、あの日々から10数年、ある意味ではシームレスに再び映画制作が動いている。端的に言えば、あの頃の続きがいまここにある。ブログを消さないでおいたのは、こうして再び映画に取り組む時も見据えていたのは間違いない。

映画は僕にとっては原点であり、同時に鬼門でもある。最初の短編のアナーバー入選や国内受賞がなければ続けていく自信は得ることができなかったし、その後に満を持して取り組んだ上記の長編映画の失敗がなければ、写真に本格的に取り組むこともなかったに違いない。
その原点なり鬼門がもう一度目の前に現れて、全力で戦いなさいと迫ってくる。臆せず飛び込み、やはり予想通りというかなんというか、軽く命にも関わるような状況も経験しながら制作は深まっていく。これが映画だったな…と思いながら、時おり冷や汗をかきながら物事を前へ前へと推し進めていく。迷っていたら間に合わないし、何かを決める度にそこで作品の明暗が分かれる。この極限のプロセスが、そして結果としての作品の質が今後の鍵になるだろうということは直感している。制作者の熱量は、必然的にその後の作品の価値を左右していくということを経験的に学んでいるからだ。故にこのやり方を信じて、敢えてこの極限状況に身を置いているのだろう。

制作スタッフの仕事には3年間の成長が反映されており、完璧とは言えないまでも丁寧かつ迅速に進む。東京からは信頼しているカメラマンが交通費だけで駆けつけてくれる。僕も谷底で冬眠していた頭をフル稼働して完璧な設計図を描くべく努力をしている。誰か一人でもこの状況を信じられなくなれば全員が倒れることは分かっているが、そんなことを危惧していては到底映画など生み出し得ないということを、やはり僕は経験的に知っている。


# by akiyoshi0511 | 2016-02-12 14:18 | monologue