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http://northfinder.jp/events/hokkaido.html

昨夜はこのオープニングセレモニーで講演をしてきました。
持ち時間を勘違いして、進行形のシリーズの解説が超早送りになってしまったのは我ながら反省点というか残念点。

しかしこの写真展、本当に有意義だと思います。
北海道をステージに写真を撮るプロフェッショナルの、多様なアプローチを見ることができます。
どの方の作品も見応えがあると思います。

入場無料、しかも大通り6丁目という好立地ですので、ぜひ足を運んでみてください。

PS:講演にお越し頂いたWさん、森彦のコーヒーとクッキーありがとうございます。美味しくいただきます。
# by akiyoshi0511 | 2010-10-02 12:13 | dialogue

今週金曜はフジフォトサロンの写真展に関連して講演を行わせていただきます(前回の記事をご参照ください)。
その次は、10月16日(土)に下記のフォーラムで「森と水のウトナイ」の上映があります。

このイベントも以前から本番を心待ちにしていました。
フォーラムへの参加はもちろん、個人的には以前から行ってみたかった苫小牧市サンガーデンも楽しみです。
以下、案内メールより転載します。

・・・

10月16日に、NPO苫東環境コモンズ等が主催する2回目の
環境フォーラムを苫小牧で開催します。

場所は、苫小牧市サンガーデン、時刻は13時30分、概要は以下のとおりです。
以下は講演等内容です。


①基調報告『苫東環境コモンズの系譜』
環境コモンズ研究会座長・釧路公立大学長 小磯 修二 氏

②講演 1『霧多布湿原トラストのファンはどうして生まれたのか』
NPO法人 霧多布湿原トラスト 理事長 三膳 時子 氏

③講演 2『地域力と環境保全をどうつなぐのか』
NPO法人 ねおす 専務理事 宮本 英樹 氏

④特別プログラム『森と水の庭・ウトナイ』上映とスピーチ
映像クリエイター 北川 陽稔 氏

詳細は http://seinen-kishukusha.com/221026forum2panflet.pdf

・・・
# by akiyoshi0511 | 2010-09-30 01:18 | dialogue

品品での2ヶ月連続個展、および東川でのグループ展は無事終了しました。品品は本当に多くの方にお越し頂き、たくさんのご感想をいただき有り難く思っています。どうもありがとうございました。

そして来月はフジフォトサロン札幌でのグループ展。こちらは既にプリントチェックを終え、あとは開催を待つのみ。
初日(10月1日)には夜の部のアーティストトークで15分ほど、自己の写真について(=北海道で写真を撮ることについて)、お話をさせていただく予定です。
写真展詳細は下記にあります。北海道在住の著名な写真家の方々が多く参加する写真展。また、このようなアプローチの企画展はこれまでにはなかったように思います。ぜひ御覧ください。
http://northfinder.jp/events/hokkaido.html

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北海道の写真=絵はがき的ネイチャー写真の時代から、何かが変わりつつあるのかもしれません。それはデジタルカメラの普及により、所謂プロフェッショナルの写真とハイアマチュアの写真の境界が一層曖昧になってきたことも起因しているのでしょう。
それはとても望ましいことだと個人的には思います。一般に自然が豊かと言われる北海道で、その地域性に閉じこもるのではなく、地域の環境を深く掘り下げた普遍的な写真というものを、僕自身も追求してゆきたいと思っているからです。

また、これも次の予告になりますが、10月31日には北大クラーク会館で「森と水の庭ウトナイ」の上映が予定されています。その日には館内別部屋にて、写真の展示(「Two Sanctuaries」)も行う予定です。ギャラリー空間ではないですが、品品の展示を御覧いただけなかった方はぜひお越し下さい。同地域を題材にした映画と写真を併せて御覧頂くことで、ひとりの映像/写真の制作者が、北海道のローカルな環境にどのように向き合ってきたか、多面的に見ていただける機会になると思います。

詳細は下記を御覧ください。
http://www.clarktheater.jp/work_gaia.htm


Akiyoshi Kitagawa on the web
http://www.visual-activist.com/akiyoshikitagawa/

# by akiyoshi0511 | 2010-09-13 14:07 | dialogue

『Two Sanctuaries』展

【会期】 9月2日(木)〜12日(日)
 AM10:00〜PM6:00 ♦最終日はPM4:00頃まで
 休館日:9月7日(火)
【タイトル】 『Two Sanctuaries』(2008年)
【場所】 品品法邑2F (http://houmura.com/
札幌市東区本町1条2丁目1-10 TEL 011-788-1147
※札幌では初展示となります

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Akiyoshi Kitagawa on the web
http://www.visual-activist.com/akiyoshikitagawa/
# by akiyoshi0511 | 2010-09-01 21:47 | dialogue

「尾道」と「七つの山」

「写真小誌」はもう何度読み返しているだろう。初めて読んだのは随分前だと思うが、折あるごとに読み返している。この本は、読み返す毎に新しい発見が得られる(発見というのは、読む毎にそこから何かを想起する…という意味で)。
最近、港千尋氏の「第三の目」を読んだことも手伝って、何度目かの通読をした。

レンガー・パッチュの「世界は美しい」というあまりにも力強い命題と(これはほとんど全体主義のスローガンにさえ聴こえる)、世界の意味を捩じ曲げる写真。あるいは匿名のアマチュアによる、絵画を模倣する「趣味の」写真。
それらは結局、現在まで写真の主軸であり続けている。また現在でも、所謂「プロの写真」のほとんどが、その範疇に含まれることも何ら変わっていない。これは、マルクスが予見した世界の変革が、結局のところ今だ訪れてはいないか、あるいは人類が既に、その変革の機を逸してしまったことの証左とも言えるかもしれない。
ボードリヤールが云い遺したように、弁証法的世界(あるいは弁証法的思考が通用する世界)は、既にテクノロジーの肥大化によるシステムの自動性に取り込まれてしまった。最後の最後にボードリヤールは別の概念を対置してこの世界を去ったが、未消化のまま提示されたと思わざるを得ない。

いずれにしても、それらの「絵はがき写真」にベンヤミンが対置した、アジェ、ブロースフェルト、ザンダーらの写真、そして、認識のための新たな言語としての写真を切り開くモホイ・ナジの果敢な実践や言葉は、この「写真小史」が発表された時代に留まらず、現在でも、今後においても永遠にアクチュアルなものだろう。
「写真小誌」の図録に飽き足らなくなり、手元にある、ザンダーの写真集(数年前に東京の企画展で買ったもの)をあらためて手に取って開く。すると、ザンダーの晩年の作品「七つの山」のシリーズの中に、ヴィム・ヴェンダースが尾道で写した写真と酷似する1ショットがあることに気づく。

なぜ、ここでヴェンダースなのだろうかと、少し考える。

ヴェンダースは東京のモードをテーマにしたドキュメンタリー「都市とモードのビデオノート」の作中において、山本耀司との対談でザンダーの写真集を引き合いに出していた。そこで言及されるのは(映画の主題に沿って)人々の顔貌や装いだったが、同時に、ザンダーが引用されることで、ヴェンダースと山本耀司がなぜ共鳴するのかを暗に裏付けてもいる。映画の中で、ザンダーが媒介となってヴェンダースと山本耀司は共に「時代と人間」を扱う作家として、地続きとなっている。

そして、ヴェンダースという監督は周知の通り、映画においてのみならず、ビデオドキュメンタリーにおいても、「(カメラで)見ることとは何か?」を追求する作家だ。「ベルリン天使の詩」や「夢の果てまでも」などの主要な劇映画においては、ストーリーテリングやキャメラ・ワークのなかでそれを主題とし、「東京画」「都市とモードのビデオノート」などのドキュメンタリーにおいては、自己言及的なモノローグを装置に、あるいはカメラそのものの「視点=人称」を考察し、映画フィルムのマチエールが内包する聖性を拠り所に「電子の視線」の是非を問うた。
また近年の傑作「ランド・オブ・プレンティ」は、その「電子の視線」の即応性が、時代のリアリティと見事に結びついた作品でもあった。
(ちなみに…ヴェンダースも度々言及してきた「デジタルかアナログか」という問いには永遠に答えが出ないだろう。代わりに、デジタルであれアナログであれ、それが本質的にアクチュアルかどうか?という問いを置くならば、ヴェンダースは常にそれに応えてきたと言える。また、前述の港氏の本でも、デジタルの是非についてそのようなアプローチがなされていたように思う。その本についてもまたいずれ書きたい)

そのヴェンダースが、尾道を8x10のフィルムで、静止画で記録(あるいは記憶)するとき、ザンダーの「七つの山」の視線が脳裏を過っていたとしても、何ら不思議はないように思う。あるいはヴェンダースはそれを承知の上でより積極的に、山上からの尾道の眺めにザンダーの取り組みを二重写しにしたのかもしれない。

儚いということは脆いということを意味しない。
儚くも失われてゆくことは、それが永遠即ち、記憶の領域に移行してゆくということだ。

ザンダーが記録した人や風景が(今でも新鮮であることが)その証左であり、それを辿るヴェンダースの眼差しも、同じ地平を見据えているのではないだろうか。



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# by akiyoshi0511 | 2010-08-24 14:59 | dialogue

連休は洞爺湖にキャンプを張り、1977年の有珠山噴火の痕跡を辿っていた。
夜のシリーズの「#3」の撮影が目的だが、まだまだ入り口しか見る(撮る)ことができておらず、年内にあと数回は通う予定。シリーズの1から3をこの晩秋までに揃えたい。

お盆明けの昨日は植苗小中学校の教職員の方々を前に「森と水の庭ウトナイ」の上映を行い、短時間だが談話もさせていただいた。
来週は同校の小中学生を対象に上映会を催していただくことになっており、その打合せを兼ねた試写。本番の人数は100名以上になるかもしれない。
子どもたちにこの取り組みの本質を伝える、簡潔で力強い言葉を考えなくては。

帰途、恵庭の造形作家T氏のアトリエに寄って夕食をご馳走になり(これが毎度、本当に美味で、身体の奥底から活力が湧くような食事)、そこに下宿する北大の院生と10月の上映会の打合せ。
こちらは知る人ぞ知る作品「地球交響曲」との同時上映で、一般の人々も入場可能な数百名規模の上映会になるそうだ。それほど多くの方に一時に観てもらう機会はなかなかないと思うので、覚悟をあらたにする。
同会場で写真の展示も行うことになった。

打合せを終えて23時、恵庭の夜空を見上げると怖いほど濃密な星空が広がっていた。


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# by akiyoshi0511 | 2010-08-18 21:31 | monologue

Green TV Japan にて映像配信

「森と水の庭ウトナイ・配信版」が公開されています。

第一部 春篇
http://www.japangreen.tv/journal/#/000804
第二部 夏篇
http://www.japangreen.tv/journal/#/000805
第三部 冬篇
http://www.japangreen.tv/journal/#/000806

この作品は昨年、ウトナイに撮影拠点を構えて、半年ほど断続的に撮影を行いながら制作したものです。湿原の周辺の自然環境や、その自然を軸に生きる人々の営みを描いています。
本来は40分の中編作品ですが、今回のリリースは配信版という位置づけで25分弱の短縮版になっています。

本作品の中でも描かれている「イコロの森」のガーデン撮影の仕事を生業としながら、地域との関わりのもとに作り上げた本作。オーソドックスな構成ですが、作り手として端的に言えば、「一度はやってみたかった」というタイプの映像です。
誰にでもできるようで、自分(たち)にしかできなかった「仕事」だと思います。

主観的なことで言えば、この取り組みの中で「森の心性」と触れる契機を得ることができたと感じており、それはここから直線的に掘り下げるというよりは、頭の片隅で今後も意識し続けることなのかもしれない、と感じています。
生活の場としての森、人々の心のための森、そして、ただそこにある森。
それらの3つの次元と、多面的に触れ合ったプロジェクトでした。
# by akiyoshi0511 | 2010-08-06 21:47 | dialogue

「Unknown Northern City」展


 【会期】8月4日(水)〜12日(木)
 【タイトル】『Unknown Northern City』(2008年)
 【場所】:品品法邑(http://houmura.com/
  ※本シリーズ初展示となります

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 シリーズ全18枚。
 今回の展示はウェブ上のポートフォリオで公開しているものとは少し構成が異なり、札幌市内の景観を中心にセレクトしています。
 そのため新たに未公開カットが加わり、外れたカットもあります。
 プリントサイズは半切と小さめですが、この構成は今回きりという可能性もありますので、ぜひ御覧ください。

 8日(日)の午後は在廊の予定です。



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# by akiyoshi0511 | 2010-08-03 21:21 | dialogue

歯を3本抜く

午前10時に歯医者で抜歯。
緊張とは裏腹に呆気なく終わったものの、それでも歯医者が苦手で5年ほど虫歯を放置してきた自分にとっては大変な出来事だった。
3本抜いて、うち2本は親知らずだったので、実質失った永久歯は1本。抜いたのは3本なのに、喪失感は1本というのも妙な感じがする。
いずれにしても奥歯を一気に3本も抜いたのだから、三半規管にもなにか影響があるに違いない…と、医学的な根拠もなしに、何となく思っている。

痛み止めも順調に効いていて、午後の仕事はいつもの5倍くらいのペースで進んだ。
天気が安定したので夕方はMR山の撮影。いつものように、夜陰のはじまりの1枚のみ。

そのMR山の麓にある北海道でもっとも大きな神社と、今日初めて向き合った。
出雲の神のもとにこの島を「北海道」と名付け、日本人が所有することを明確に規定した場所。
あまりにも重い意味を担うこの場所は、陳腐な批判の眼差しなど軽々と撥ね除けてしまう。

それは入念に手入れされた空間の佇まいや、彫り込まれた「君が代」の文言の力によるものではなく、夕暮れ時にも途切れることなく参拝に訪れる人々の思いによるものかもしれない。そういう人々の思いを僕は理解できないが、かと言って反感を持つこともない。

北海道に生を受けることと、北海道の外のものを信仰することが微妙な具合で結びついている。信仰の根源を否定すれば己の生の由来も立ち消え、己の生を肯定すれば、信仰に加担することになってしまう。
個人の感情で向き合えるものではないし、かと言って、向き合えないから仕方がないという風に片付けてしまうこともできない問題。
世界中に同じような問題が溢れていて、他ならぬ自分自身もその種の矛盾を、望むと望まざるとに関わらず抱え込んで生まれてきたはずなのだが、あまりにもその認識がない。
「皆さんは、先住民の人々を虐げて北海道を手に入れたご先祖様のお陰で、今こうして生きていられるのです」という教育を受けたことも、もちろんない。
近代の歴史の時間の奥に、もっと多くの盛衰があるのもまた事実。縄文文化の時代にも、オホーツク人の時代にも、ヒト同士の争いは絶えることがなかっただろう。見つめるべきは寄せては返す波のような時間の流れであって、個々の民族同士の問題ではないのかもしれない。

ただ、近代化(西欧への同調)というものを倭人がこの場所に持ち込んだのは事実である。つまり私たちの祖先が、終わりへと向かう時間のスイッチを「ON」に換え、私たち自身もそれを加速させている。
その「加速」の象徴として、幾多の開発による自然環境の破壊や、泊の原子力発電所や、過剰な自衛隊の基地があり、しかもそれらは私たち自身の生活の維持とも密接に結びついている。つまり、何を言おうと、何をやろうと絶対に逃げられない仕組みがある。それはもう完全に個人の意思とは無関係なところにセットアップされており、あるいはひとつの国が自国の国民のために判断できる領域をも越えてしまっている。
時間と「システム」だけが、ただただオートマティックに、終わりへと向かって突き進んでゆく。

当初、この場所で仕上げる写真は1枚のみの予定だった。けれど予定を変えて、少し日数をかけて5枚から7枚ほど仕上げることにした。
神道に限らず一切の信心を今後も持つつもりはないが、この場に感心を持ち、しばし時間をかけて視線を手向けるのは必要なことなのかもしれない。
ここで生まれた者だからそうするのではなく、それだけの重みを持つ場所だから、少なくとも「アイロニーのための一枚」で終わらせるべきではない…という気がしている。


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# by akiyoshi0511 | 2010-07-26 22:37 | monologue

北海道とは思えないほどのうだるような暑さと、まるで梅雨のようなじめじめした日が入れ替わり訪れる。
映画祭が終わってからも相変わらず忙しく、作品の制作期限も迫っていて、日を追うごとに胃の奥に嫌な感じが広がってゆくのを感じる。

眠る前に開く本は相変わらずクレジオの「砂漠」。疲れていると読書のペースは遅い。無理にペースを上げるとイメージが意識からすり抜けてしまうので、ペースを落してでも丁寧に読むように心がけている。

物語の中で描かれているサハラの情景が少しずつ馴染んでくるにつれて、自分が、どこかで見た誰かの写真のイメージを参照しながらその小説の世界に浸っていることに気づき、ふと考える。
その源泉となっていたのはセバスチャン・サルガドの写真だった。彼の写真がアフリカやサハラの人々の生活を題材にしていたことは微かに記憶にあったけれど、改めて調べてみると、「砂漠」で物語の主体として描かれているサハラの民・ベルベル族も、サルガドの被写体となっていた。

クレジオがテキストで織り上げるサハラのイメージ(それは写真の連続性と映画の持続性を兼ね備えた、類い稀な描写力によって齎されるもの)。そしてサルガドの、まるで宗教画のような、時として過剰とも思えるほどの絵画的写真(その姿勢に賛否両論あるにせよ、高次の写真表現であることは間違いない)。
クレジオのエクリチュールには時間の変遷や、持続する意識の流れがあり、サルガドの写真には静止した瞬間から広がる永遠性と永続性がある。

双方の表現は意識の違う角度から、ともに強い普遍性と浸透力をもって、旅を知らない僕の中に、ゆっくりと世界のイメージを築き上げてゆく。


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# by akiyoshi0511 | 2010-07-18 13:51 | monologue

写真展・グループ展のお知らせ

●写真展(札幌)
【会期A】8月4日〜12日
【タイトル】『Unknown Northern City』(2008年)
【会期B】9月2日〜12日
【タイトル】『Two Sanctuaries』(2008年)
【場所】:品品法邑(http://houmura.com/
 ※どちらも札幌では初展示となります

○グループ展『東川町国際写真フェスティバル・写真インディペンデンス展』
【作品タイトル】『切り崩された崖/書き換えられた信仰』(2010年・6点)
【会期】2010年7月31日(土)〜9月6日(月)
【場所】北海道上川郡東川町1丁目19番8号 写真の町東川町文化ギャラリー

○グループ展『〜いのちの記憶〜 HOKKAIDO』
【作品タイトル】『崩れた崖の川(団地/岩塊)』(2010年・2点組み)
【会期】10月1日〜10月12日
【場所】フジフィルムフォトサロン札幌

・・・

今週末(18日)は下記のライブにて写真のスライドを上映(投影?)予定です。
http://naoeaster.blog22.fc2.com/blog-entry-336.html


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# by akiyoshi0511 | 2010-07-14 08:50 | dialogue

写真展×2

8月と9月、札幌市内のギャラリーにて2つのシリーズを展示します。
どちらも撮影は2008年ですが、札幌では初の展示となります。
それぞれの詳細はまた後日お知らせします。

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# by akiyoshi0511 | 2010-07-07 14:33 | dialogue

「#2」 撮影開始

新作の撮影を再開した。MR山の撮影は、やはり先のIS山との光線条件の違いや、季節の変化に悩まされている。撮影をはじめてまだ2回なので、それほど焦る必要もないのだろうが、時間が限られていることも確か。
続くMW山が、観光道路の工事の関係で予定していた撮影ができなくなったことも焦りの遠因となっているが、今はひとまずMW山のことは考えず、「本来のMW山」であるMR山の撮影のことを考えよう。
先日の撮影後に道を間違えてしまい焦ったが、市街地の片隅にある山であり、羆の心配もないので、夏の今は多少無理をして迷うことになっても大きな事故には至らないはず。

この「闇のシリーズ」においては、ぶれても良い要素と、ぶれるとまずい要素がある。ひとまず札幌市周辺で先住民の文化と倭人の文化(あるいは近代文明)の衝突が見られた場所であれば、ロケーションの選定とその撮影順序は柔軟に考えてもいい。
しかしその分、一度撮影をはじめた場所については視点を明確にした上でひとまず単一のシリーズとして集中して取り組み、各シリーズごとに単独の発表に耐え得るものにしなければならない。
このシリーズの本質を複数のNo.から抽出するかたちで提示できるのは、最低でも3〜5カ所のロケーションを撮り終えてからとなる。

映画祭を終え、制作仕事も再開したので、平日のうち3日間は9時から5時まで仕事、5時頃から入山という妙に規則正しい生活が始まっている。
それ以外の2日間はこれまで通りイレギュラーとなるが、ほぼ毎日、時間を作って撮影には赴く。

・・・

休憩時間に、クレジオの「砂漠」を読み始めた。映画祭直前に買って読むのを楽しみにしていて、まだ一度もページを開いていなかった。
冒頭の数ページを読んでみて、やはり一気に引き込まれた。中期以降のクレジオの情景描写はなぜこんなにも想像力に富み、力強いのだろう。おそらくその理由は文章の成熟だけではなく、灼熱の場所への、そして砂漠の民への激情とも言うべきものがそこに込められているからではないか。
クレジオのように、西欧の文脈を冷徹に見据え、西欧と異なる文化に正当な愛情や激情を注げる精神を身につけるのは簡単なことではない。文化への「愛情」という意味では、もしかしたらレヴィ・ストロースよりも遥かに暖かみのある思想がそこにはあるのかもしれない。

差異を見定めた上で、クレオールな文化を標榜すること。それは、宿命と経験と知性のすべてが備わっていなくてはなし得ないことなのだろう。だからこそ僕はクレジオの作品に関しては、心を開いて「受け手」となることができる。
「偶然」や「アンゴリ・マーラ」で開かれた回路は、少なくとも僕にとっては生涯信じるに能うものなのだ。そういう風に読ませてくれる(現代の)作家は実は少ないのではないか。
それは僕にはもちろん不可能な視線だ。だからこそ、せめてこの日本に生きながら(生き存えながら)、「自国」と言う陳腐な枠組みを超越した次元へとアクセスする視線をいつか(写真で)実現したい、と思っている。
最近までそれは到底不可能な視線だと思っていた(日本の近代以後を掘り起こす限りにおいて、西欧を追従した喜劇性が常に付きまとうと思っていた)…が、北海道に戻って3年が経った今、そうは思っていない。それは未だ完全な形では実現せずとも、決して不可能な視線ではないのだと。

少なくともこの北海道には、日本以外の文化の痕跡がある。大地に刻まれた痕跡や名前を手掛かりに、「写真特有のなにか」を用いて、原初の時間を蘇らせるためのコードを導き出すことができないだろうか。
もちろんそれは、必ずしも北海道だけで行われるものではないのだが、少なくとも自分はこの場所に縛られる身であるということは、必然的にそういうことであり、手掛かりが眼前にある以上、無理にそれ以上の自由を求める必要もないと思っている。
# by akiyoshi0511 | 2010-07-06 01:58 | monologue

暫しデジタルと離別

ビューカメラ1台とフィールドカメラ1台、それにレンズ4本と備品を収納できるサイズの登山リュックを、石狩の釣り具屋で5000円で購入。安くて大容量、地味なカーキ色で、ナイロンではなく布製なのもいい。
来月から、これらを担いで近隣の山々を歩く。身辺環境からはじまり、北海道を逡巡し、おそらくやがて「北海道よりも北へ」赴くことになる。必然的に長い付き合いになるであろう機材たち。
差し当たり不必要なものは全て売却し、今のシリーズの撮影に必要な機材を充実させた。DSLRも手放し、手元の環境はブローニーと大判のみになり、何だかすっきりした。撮影仕事はしばらくフィルム限定で、映像仕事はレンタル機材でも対応できる。半分仕事・半分作品という微妙な位置づけではあるけれど、数年振りの自主制作の映像「森と水の庭ウトナイ」が完成したばかりでもあり、次の映像(映画)作品はそう焦るものでもないと思っている。

大判フィルムの情報量、そしてネガ(陰画)という「光を闇に、闇を光に反転させて記録する」という物理的なプロセスが、自分の写真にはどうやら欠く事のできない用件のようだ。写真の真実性を考える時、とかくレンズ工学的な部分(どの焦点距離でどのように向き合うかというような、経験論的姿勢)に囚われがちだが、レンズも所詮装置の一部であり、何ミリを選ぶかは写真機との戯れであり、レンズという補助装置ありきでの真実性への拘泥に過ぎない。言い換えれば、何ミリを使おうと(写真の本質的な真実性に関して言えば)同じこと。
写真の真実性を求める上で大切なものは寧ろ、記録する感光材料の物質性の方ではないか…と今は考えている。写真を自己の自然な視野に近づけることと、結果としての写真でモノの発する真実性を得ることは実は符合しないのだが、これを正確に知るためには、これまで通してきた(標準レンズ+ポジフィルムの)やり方もまた、不可欠だった。

今春、専門学校で写真の起源について教える時間があり、そこで「写真以前の世界」についていろいろと調べ、考えた。それは太古の人々がラスコーの壁画を描いた時代まで引き戻して、モノを視る、未来を夢想するということについて考えることだった。伝達(コミュニケーション)の欲望や、未知なる明日への想いが込められた画には、記録と想像が分化される以前の、「見ること」への渇望が凝縮されているような気がした。また、先日は北海道にある洞窟の刻画を目にした。そこには、数千年前のシャーマンが描いたという、翼の生えた人間像が描かれていた…。それらの検証の中で得たものは全てを写真のための言葉に置き換えることはできないが、できないからこそ、写真に影響し得るなにかがあるのではないか。

あるいは、ニエプスが、ダゲールが初めて写真を結像させた瞬間から生まれた、写真のメディアとしての特性について改めて見直すことも必要だった。そして、同時期に進めていた今のシリーズの製作で多くの試作を繰り返していたことが、現実的な意味での撮影の作法を根本的に見直す契機となった。

最新のシリーズの試作の課程では、同じ場所を何度か違う条件と方法で撮影していて、それらの中には別のコンセプトの組み写真になっていたり、単独の写真として仕上げたものもある。10月に予定しているフジフォトサロンの展示等で、それら傍流の作品も提示したいと思っている。
# by akiyoshi0511 | 2010-06-29 05:52 | monologue

東京を掠める

一昨日の夕方、急遽羽田経由で静岡へ向かい、今まで乗っていた車と引き換えに、小さなワーゲンを受け取った。薄暮の闇の撮影のための車との出会いは、薄暮の時間帯。そして偶然ながら車体色も藍色。
その後、すぐに東京方面に移動を開始したが、ナビのない車なのですっかり道に迷ってしまい、横浜でUさんに会う時間がなくなってしまった。代わりに電話で少し話をしたが、やはり会って、もっと話したかった。

深夜0時に新丸子に到着。Mさんのスタジオを訪ねて、プリントを見せる。彼が反応した一枚が、この新しいシリーズを切り拓いた一枚だったので、そのプリントを手渡した。彼の紡ぐ音も、これまでより遥かに立体感を増していた。短時間の訪問だったが、内容の濃い話をした。自分の写真と彼の音楽で、また何か模索することになるだろう。
午前3時に新丸子を出発し、眠らずにアクアラインを抜けて水戸方面へ。結局、東京は行きの電車で蒲田を通過しただけで、帰途は多摩川まで来ていながら、東京側に立ち入ることはなかった。時間さえあれば会いたかった人が、川向こうにまだ何人かいる。次は一体いつ来ることができるのだろう。

水曜の午前中に大洗のフェリーターミナルまで移動。いつも、通過するだけで撮影をしたことはないが、茨城の海岸線の防風林や里山は印象に残る。もしもここで長く暮らしながら執念深く見続けてゆけば、例えば高く伸びた竹や、松林の陰に何かを見いだせるのかもしれない。ただ、自分は当分これら「内地の」光景と向き合うことはないだろう。生涯ないとは言い切れないが、もしかしたらないのかもしれない。

・・・

大部屋の客室で目覚め、浴室の洗面所で身繕いをして、甲板に出る。外気はほどよく引き締まり、海の上にいるにも関わらず空気は乾いているように感じる。ちょうど本州の低気圧を抜け、北国の気候へ立ち入るところのようだった。ガラム(…遂に煙草を替えた)を吸っていると日が射してきたので、光の当たる場所に立った。雲は高く、太陽も遠く感じる。本州から北海道への帰途の船の上で浴びる光は、ささやかな解放感を与えてくれる。
船旅ではいつも「トニオ・クレーゲル」のことを考える。トーマス・マンの人生と自分の人生を比較するなど馬鹿げているのは分かっている。それでも、ふと考えてしまう。

ごく最近になって、やっと、たったひとつの「技芸」を得た確信がある。それは皮肉にも、写真という装置を光の曲芸を捉えるために用いず、闇を炙り出すために用いる試みだった。

苫小牧港に着岸するまでずっと、ボードリヤールの「なぜ、すべてがすでに消滅しなかったのか」を読み返していた。この本は今年に入ってから、何度か精読している。思えば二十代の半ばに幾度も読み返した西井一夫の本は「なぜ、未だプロボークなのか」だった。
異なる次元で「なぜ、〜なのか」と問う二冊に、因縁を感じなくもない。

帰ってきて、「10ミニッツ・オールダー」のカウリスマキ監督の短篇を観る。東京に棲んでいても北海道に戻って以後も、カウリスマキ作品に流れる時間の心地よさは変わらない。
# by akiyoshi0511 | 2010-06-25 02:01 | monologue

ウトナイの映画祭は無事完了しました。
開催にご協力いただいた団体や個人の皆様、映画祭にお越しいただいた皆様には、あらためて心より御礼を申上げます。

あの瞬間、ウトナイの「森と水の庭プロジェクト」の取り組みが初期の目的を達成し、同時にプロジェクトが終了したことを実感しました。
振り返れば、60余点から成る写真のシリーズの制作にはじまり、ドキュメンタリー映画の制作、そして地域の森の施設で映画祭を開催したりコミュニティカフェを開くなど、まさに盛り沢山のプロジェクトでした。

「森と水の庭プロジェクト」は、これにて事実上の活動終了となりますが、ウトナイの映画に関連する活動は、今後も継続する予定です。また、北海道の環境に関連する講演やワークショップも、今後も機会をいただければ積極的に行いたいと思っています。

先日は、札幌市環境プラザ(エルプラザ)の関連講座で、20名ほどのカメラを持った参加者の方とともに北大の森を歩きながら、都市の中の自然を撮影する企画のナビゲーターを務めさせていただきました。
北大の構内でいくつかポイントを定め、まずは全員で北大の森の植生に詳しい理科の先生の解説に耳を傾けます。
それから、思い思いにカメラを携えて撮影の時間。一カ所ごとの立ち寄る時間が限られていたので、少々慌ただしかった面もありますが、とても面白い企画だったと思います。

また、映画祭の運営と並行して新しい写真の制作も進めてきました。その最初のグループ(13枚)が先日完成し、続けて、7月は2つめのグループに取り組みます。この取り組みは現在予定しているだけでも8グループほどの写真群があり、今後も増えてゆくと思います。また、取り組みの性質上、一回の撮影で限られた枚数しか撮影できないため、少なくとも今後数年は継続することになります。
従って、個々のシリーズの展示と、数グループからなる展示を、それぞれ段階的に考えています。

上記のシリーズを札幌で発表し始めるのは、おそらく来年以降。それ以外に今年は、8月(「Unknown Northern City」@ギャラリー品品)、9月(「Two Sanctuaries」@ギャラリー品品)、10月(写真家NPO関連のグループ展@フジフォトサロン)と、札幌での展示予定が続いています。8月・9月に展示するものは2008年撮影のシリーズで、フジフォトサロンへの出展は今年の新作になります。

詳細は、また追ってご案内させていただきます。
# by akiyoshi0511 | 2010-06-13 22:46 | dialogue


今日は学校関係の打合せの後、「森と水の庭〜」の仮ナレの収録をした。そして、やっと今夜から本格的に後半の映像をつなぐ。例によってデッドラインギリギリの作業日程。

足掛け3年に及んだウトナイの取り組みは、これがおそらく最後にして最大の山場となる。
ウトナイとの関わりはここまで…ということにはならないにせよ、その次には差し当たり、別の場所を素材にしたプロジェクトの輪郭が見えている。

10年振りに再会した自分の故国である北海道の「今」と向き合い、自己の現状と北海道の接点を築くために取り組んだのが、ウトナイの映像作品と一連の活動だと思う。逆に言えば、一連の活動の中で生まれたのが本作。これほど「柔らかい」作品は間違いなく今後撮ることはないだろう。

次の取り組みは、北海道の歴史性をひとつの装置(…に過ぎぬもの)として捉えなおし、純粋に写真/映画の作品そのものと向き合うことになる。それは結果として、より普遍的なエコロジーにアプローチするものにもなるのだろう。さらにこの意識は、現実へのペシミズムや人間存在の否定とも、否応なく結びつく。

ここまでの、一連のエコロジーへの接近の中で、もっとも違和感を感じていたものは、科学技術や情報技術の進歩と進捗を下敷きにしたオプティミスティックなエコロジー意識だった。僕は人間の生存や行く末の問題を、そういった技術に基づく認識ではなく、生の倫理に基づいて考えたい。

先のことは分からないが、今はそういう風に考えている。
さて、ウトナイの「最後の仕事」にかかろう。
# by akiyoshi0511 | 2010-05-19 22:33 | monologue

記事掲載のお知らせ

本日(5月10日)の北海道新聞朝刊に「アースビジョン in 北海道」についての記事が記載されています。
また、下記サイトにてこれまでの活動についての記事が掲載されています。
ICCインタビューページ http://www.icc-jp.com/features/

ぜひご覧下さい。
# by akiyoshi0511 | 2010-05-10 11:18 | dialogue

昨年末からボランティアスタッフの方々と一緒に取り組んでいる「アースビジョン in 北海道」の開催準備が佳境を迎えている。札幌開催は来月16日で、もう残り時間はひと月余。続くウトナイ(苫小牧)での開催もその2週間後だ。
写真のシリーズ、ドキュメンタリー映画の制作、地域で催す映画祭…と3つの取り組みが完了すれば、足掛け3年に及ぶウトナイの取り組みにはいよいよ区切りが付くけれど、すべてが片付くのは夏なので、もうひとがんばりもふたがんばりもしなければならない。正直言って一番大変なのは、やはり映画祭運営。言わずもがな本業ではないところの取り組みなので、ほぼ全行程が暗中模索。

日曜日はその宣伝活動で、昨年からお世話になっている「苫小牧イコロの森」と「ウトナイ湖道の駅」に、フライヤーの設置に出かけた。
午後、その足で新作の撮影のため白老方面へ向かう。晴れてはいたが、まだまだ浜風が冷たく、ハッセルのウェストレベルファインダーに涙を零しながらの撮影。苫小牧と白老の間の海岸線の景観は独特のものがある。今回のシリーズはその「景色の向こう」からやって来るものを、静かに待つような取り組み。不明瞭な感覚と時間をかけて向き合う中で、不意になにか明瞭な気配が訪れるか、あるいは炙り出されてくるのを待つ。
ランドスケープの印象は刻一刻と変わる。天候などにも大きく左右されるので、比較的枚数の少ないシリーズとは言っても「一度赴けば終わり」ということにはならないようだ。

撮影後の夕方に、白老の知人宅を訪問する。軽く挨拶のつもりでいたのだけれど、あまりにも居心地が良いのですっかり甘えてしまい、晩ご飯をごちそうになった上に、地元の方々が共同で開いている温泉にも浸からせていただいた。話も弾み、白老を出たのは深夜だった。お陰で心身ともに随分回復できた。この方との出会いも、昨年のウトナイでの撮影やイベント運営がきっかけ。次はフキノトウやたらの芽を手土産に軽く飲みながら、白老の生活について話を伺ってみたいと思っている。
撮影そのものとは距離を置いたところで、その場所で生活する方にとっての、地元の景観への想いを伺うことにも意味があるのではないだろうか。風景と人は切り離すことができない、土地の人々が自然と対話(時には対峙)しながら生活のための空間や地域の景観を作り上げ、またその土地の風景が、そこで生まれ、住む人の日々の心を築く。
# by akiyoshi0511 | 2010-04-06 13:55 | monologue

初夏まで息つく間もなく

一昨日は市内のホテルで、東京から来ていた某環境映像チャンネルの方と、札幌の某青年団体の代表氏と、某NPOの方の会合に顔を出す。その後、助成金申請についてNPOの助言を受けるため事務所を訪問。丁度その時に電話が入って、5月上旬放送のFMノースウェーブの番組に出演することに。
そして昨日の昼前、某NPOの担当者の方々が事務所に来て6月の撮影ワークショップの打合せ。これは札幌駅から北大の森を歩くイベントで、理科の教諭の方がナビゲートして周辺の自然環境を解説し、並行して写真家が景色の見方について語り撮影のレクチャーをしながら参加者とともに歩くという面白い企画。こういう組み合わせ(環境の専門家+写真家のワークショップ)は意外と少ないのでいろいろなシチュエーションでシリーズ化したら素敵かも…と話す。

続いて午後2時から、札幌映画サークルという任意団体の媒体掲載のための取材を受ける。先のシアターキノの上映会がきっかけで今回、会報誌に映画祭と映画製作について情報掲載をしていただくことに。
話の流れで、(自分の)人生は60年くらいでいいと話をした。男性の平均寿命は78歳ですよ…と諭されたが、言い換えればこれは、60年は欲しいと思えるようになったということだ。数年前までは40年位で良かった気がする。(つまり、計画が長期化したということか)

2件の話し合いを終え、少々疲れたので夕方に休憩がてら石狩までドライブ。天気が良くて、春のドライブを先取りという感じだった。早く、暖かくなってほしい。

事務所に戻って、宮崎淳氏のDVDを観ながらうとうとしていた。日々は充実しているのだけど、相変わらず疲れ易い。ちなみに、実験映画をあまり観なくなってからも、宮崎氏の作品だけは時々観たくなる。その映像の根底にある強い力の秘密はなんだろうか?
自分は北海道に戻って以来、ドキュメンタリーという名目で撮影を続けてきたが、この取り組みはおそらく、その範疇では終わらないだろうし、終わらせないだろう。これからは寡作を脱するのも目標。
グラフィックデザイナーNさんと仲間の企画屋Yさんが遊びに来たので、しばし歓談。誰かと会話していると、どんどんワークショップのアイデアが出てくるのに、一人でデスクに向かうとどうして思考が硬直するのだろう。対話が閃きに繋がるタイプらしく、対話がないとあまりアイデアが生まれないのだった。
何かに追われている時に限って、長い日記を書くことが多いのだけど、それは働かない頭をどうにかして揺り起こそうという作用なのかもしれない。自分自身を対話の相手にしたウォーミングアップ。非常用電源のようなものか…。

BGMに「Loons Of Echo Pond」というカナダの自然音のステレオレコーディングCD音源を聴きながら、坂本龍一のhibariをYoutubeのループ再生で重ねてみると、いい感じに。

5年振り(6年振り?)に非常勤で映像制作を教えることになった。昨年から講演やセミナーが増えているので、これが自然な流れという気がしている。いま急いで、半期分のレジュメを組み立てている。時期も時期なので、いろいろ仕事案件の納期も差し迫っている。
加えて、「アースビジョン in 北海道」の動きも本番に向けて秒読み。年度開けから初夏まで息つく間もない。
# by akiyoshi0511 | 2010-03-31 08:31 | monologue