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2005.10.31

 ヴェンダースの新作を劇場で観たり、オリヴィエ・アサイヤスのDAMONLOVERを久しぶりにDVDで観て「ナラティブ」への誘惑を感じつつ、週末は細々とした雑用や仕事に追われる。土曜の夜中、相模湖の部屋へ行ってひと眠り…と思ったものの、暖房器具は既に移送済みなので寒くて眠れなかった。部屋の状況そのものには変化がなくても、掃除が行き届いていなかったり、仕事関連の資料と衣料品のほとんども既に小金井に移動してしまったので、あまり落ち着かない。思えばたった半年間の相模湖の生活も結構いろいろなことがあったなと、バスタブに浸かりながらふと考えた。

 12月には、2年ぶりに調布に戻る。物件はほぼ決まり、希望通り部分改装の許可も下りそうだ。そこを拠点に、再び映画製作を動かせる日はいつになるのだろう。

 ヴェンダースの新作、時代に対する真摯な姿勢は相変わらずで、主演女優は『ベルリン〜』のナスターシャ・キンスキー以来の天使的佇まい。まるで世界中の民族の美点をミックスした混血女性のような、懐の広い美しさ。
 しかし泣けないヴェンダースはまだまだ本来のヴェンダースとは言えない、と思う。神と政治という、個人のたましいの拠り所を少し安直に捉え過ぎではないかという、今までのヴェンダースには見られなかった微妙なしこりも感じた。支柱を欠いたまま保守化してゆく状況にあるアメリカにたいして、その内部から一刻も早く警鐘を打ち鳴らしたいというただならぬ危機意識は感じたが、果たしてそのメッセージはどこまで個人に届くのだろう。日本を含めた西側の映画監督の殆どが、911以後の世界にたいして言及も洞察も示し得ていない中で、ヴェンダースだけは、たとえ不完全燃焼に終わっても『正面からの』取り組みを怠ることはしなかった、そういうところはやはりヴェンダースらしい。
 技巧的に思考的にも一定以上の緊張を保ちながらも、心の柔らかい部分にも訴える余地のある作品を、ヴェンダースには求めてしまう。なぜならそれはおそらくヴェンダースにしかなしえないものだから…だ。『ベルリン〜』や『パリ・テキサス』に発見した、意識の緊張が途切れることなく『醒めたままで』全身を映画に任せられる信頼とやすらぎ…、スクリーンの外まで持続し浸透する深い感動に再び逢いたいと、ヴェンダースを追い続ける誰もが願ってやまないだろう。
 そんな訳で、来春公開予定の『パリ・テキサス』の続編(!)への期待感は否応なく高まる。

 当の自分の取り組みに関しては、さすがに今から仕切りなおしとなると主題への接触のしかたそのものを改めなければならないのだろう。
# by akiyoshi0511 | 2005-10-31 20:32

2005.10.21

最近読んだ本
・「あさま山荘1972上巻」
・「連合赤軍事件を読む年表」
・トーマス・マン「ブッデンブローク家の人々」

 上の2冊は既に読んでいるが、資料として再読。「ブッデンブローグ」はまだ読み始めたばかり。ちなみに先に書いた「はじまりの時」は最後の数章を放置したまま中断している。明日あたり読み終えそうではあるものの、やっぱりクレジオの本の中ではイマイチ手応えがなかった。言い過ぎかもしれないが、最近の村上春樹を読んでる時の違和感に近い感触(これは翻訳の印象によるのかもしれないが)。

 「はじまりの時」は過去と現在を併記することで歴史への接続を試みてはいるものの、やはり当事者たる現代を生きる主人公の姿勢が研ぎ澄まされていないことには、不十分なアクセスに終始してしまう。世界をボンヤリ旅する者にはボンヤリとした光しか見えない。例え文体と構成の妙で丁寧に過去に触手をのばしても、それが主人公の内面を媒介にして現在進行形で再発見されるか、あるいは書き手の鳥瞰的な視線を媒介にして外在的に強く現代に結びつけられるか、どちらかの核が求められるのだろう。結節の強度を高めることの難しさ、そして問題の現在性/継続性を問うことの難しさ…。上記の「連赤年表」の序文にもお約束のように記載されているが、その過去と現在の関係を物語ることの難しさを、未だに私たちは突きつけられている。ワイドショー的に言うところの『連赤事件とオウムは酷似している』という段階に終始してしまえば、何一つ明るみになることはない。またその論理/道理の消滅それ自体に居直ったような表現にも、やはり何一つ救い出すことはできない、と思う。問題は、同時代の終焉以来『何が失われて何が強度を増したのか』ということであり、それによって現代というものがどのように演出されているのか、という内実にあるのではないだろうか。嘗てのように全てを一時に明るみにすることはできないのなら、世界の諸要素において、それぞれの分野に精通した者がしぶとく構造を明るみにし、いわば『論理のゲリラ戦』を展開する以外に方法はない。

 そういう意味では嘗ての村上春樹の、「ねじ巻き鳥クロニクル」は奇怪な説得力があったように思う。全てのモチーフを仔細に読んでいけばいくほどに、多くの結びつきを見出すことができ、またひとつひとつの結びつきにおいて、緻密に計算された上で、不確定部分や曖昧さが導入されていたことで、結果的に『対象を強引に名付けることなく世界の矛盾を突く』という妙技に至っていた。この研ぎ澄まされた多面性は、当時の村上春樹に突出していた要素だったように思う。『世界の終わり』で一度選択された無抵抗の先にあるものが、確かに提示されていた。

 最近のクレジオの良さというのはやはり、海や空と肉体の一体感による、無条件に受け入れられる永遠と幸福の感覚…にあるような気がする。もしかしたらそれくらいしか、もう救いは残されていないのではないか。「偶然」の、船の上のナシマの姿は、読後随分経っても色褪せることがないし、インディオの青年の嗚咽は、深き森に今も響き続けているように感じられる。

 さて、週末からはしばらく本を読む時間もない。
# by akiyoshi0511 | 2005-10-21 20:30

2005.10.10

昨夜、相模湖の部屋でクレジオの『はじまりの時』の上巻をやっと読み終えた。それから、散々後回しにしてきた税金の書類を作成したが、遅々としてなかなか進まなかった。途中でリゾットを作って休憩し、森山大同の本を気の向くままに捲り、ヴェンダースの本を読み、何度となく観ているヴェンダースの映画も観た。書類が完成した頃には午前3時を回っていた。
 霧雨の中をひた走り小金井に戻った。眠ろうと思ったけれど、眠れないので、『はじまりの時』の下巻を読み始めた。下巻は中程まで進んだ。エンペドクレスの言葉がそれ自体この上なく高潔であり、また有効に引用されていても、フランス革命時の年代記の、時代へ接触するナマの感覚は到底超え難い、という印象。それにしても、2つの時代(フランス革命とアルジェリア戦争)を共鳴させながら描いて行く前半部は、クレジオにしかなしえない、まさに見事なシンクロニシティだと思う。

 撮影は滞っている、というか、再開がいつになるのか分からない。もしかしたら全て撮り直し、かもしれない。少しでも状況を整理するために、相模湖の居場所も手放す決意を固めた。この街にはいつか戻りたい。まるで土地全体が忘れ去られた窪地のような、愁いを帯びた寄る辺ない街。中央高速の長いトンネルを抜けると、山腹のあちこちに霞が立ちのぼり、まるでマヨヒガのようだ…などと言うとさすがに大袈裟かもしれないけれど、たしかに別世界だった。その相模湖と、しばしの(場合によっては永久に)お別れである。

差し当たり、目の前にある仕事を前向きにこなしたい。久しぶりに新しいクライアントから直に来た案件は、ある国の民族解放運動に関する映画の予告篇。映画といえば、ヴェンダースの新作は楽しみだ。僕は体質的に劇場が苦手なのだけれど、久しぶりに重い腰を上げることになりそうだ。
# by akiyoshi0511 | 2005-10-10 20:25

2005.10.7

しばらく中断していた、ル・クレジオの『はじまりの時』を再び読み進めている。先祖の体験を聞き知ることで歴史を学ぶ、のではなく、祖父を追体験しながら、歴史に紡がれた己自身を感じるということ。歴史年表を通して世界を『知る』のではなく、己自身が選んだ、かけがえのないひとすじの流れを辿ることで世界を『識る』ということの意義を感じる。

クレジオの近作を読む時、初めは、神経質なほどに緻密で些か荘重すぎる文体に、戸惑いを覚えることがある。しかし必ずある段階から、すべての描写がまるで時間そのもの、空間そのもの、体験そのものであるかのように感じられるようになり、本との持続的な共鳴がはじまる。そうやって、読書が深い体験になってゆく。擬似体験ではなく、読書による真実の体験となるような気がする。

『偶然』もそうだった。ナシマが船のデッキに立って潮風を浴びる場面で、まるで緩やかに扉が開け放たれるように、小説世界と自分の現実の境界が完全に消滅する感覚を味わうことができたのだ。その心地よい共振は最後の最後まで、途切れることなく続いた。自己と主人公を重ね合わせるというような陳腐な共感とは根本的に違う。読み手が自分自身であることから解き放たれ、ある種の『認識そのもの』になっているという共鳴の感覚である。
事物と意味と存在が、完全に等価になり世界が均衡を保つひとときの、染み入るような喜びをクレジオは与えてくれる。その読書体験は読後も損なわれることはない。なぜならこの体験は、未知の感覚を押し付けられたものではなく、己の中にあるものの大きさに気付かされた、という極めて自然なものだからだ。

そういう時にだけ、もしかしたら泣いても良いのではないかという気持ちになれる。身を任せてもいいのではないかと、思うことができる。
# by akiyoshi0511 | 2005-10-07 20:24

2005.9.26

撮影を再開。先週土曜日は少人数で室内シーンを撮影した。
10月は山岳撮影が続く。それさえ乗り切れば、残りの撮影は多少余裕をもって取り組むことができる。問題は山積みなのだけれど、どうにかして終えてしまいたい。

地上の、都市や社会のいとなみから解放された映像が、どうしても必要となる。誰かのため、とか、何かとの相互作用、ではなく、もうそこできっぱりと終わりを告げる透明な一音。すべてから遠いところにある一瞬。ヘルツォークのようにそれがすべてだとは言わないが、それも必要であることは、確かだ。
# by akiyoshi0511 | 2005-09-26 20:22